話の輪に入れない寂しさやもどかしさは、一人でいる時間より圧倒的
kanon. 2025/01/22
さびしいと聞いて連想するのは、1人でいるときや、急に何かを失ったときだ。
大切なものをなくしたときは喪失感がさびしさを呼び寄せる。
確かに私も何かをなくせば寂しさは感じるが、私にはそれを超える寂しさを感じる瞬間がある。
それは、複数人でいるときである。
人がいるのになぜ寂しさを感じるのか不思議だろう。私も不思議だ。
しかし、1人でいるときではなく、人といるときのほうが圧倒的に寂しさを感じやすい。
そんなときの向き合い方について考えてみようと思う。
みんなと違うから距離を置かれた。
13歳で知った現実のさびしさ
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人といるとき、どんな寂しさを感じるのかというと、話に入れない疎外感を寂しさと感じている。
3人以上のグループでいるとき、最初は共通の話題で話しているつもりでも、一度聞き役になると私に発言権はなくなる。
私以外の人で話は進み、会話に参加しようと思う頃にはすでに違う話題で花が咲いているのだ。
私の場合、少し考えてから話す癖があり、話を聞いている間にも話を深める情報を自分の中から探している思考回路が進行形で回っている。
衛星放送のようなタイムラグをおいてから話し始めても、地上波では話が進んでいた、そんな感覚だ。
自分が話に入れないとなると、一気に輪から追い出されたようにシャットアウトされ、再び話に参加する気力がなくなる。
そういうときはとても楽しそうでいきいきしている会話になっていくので、なおさら話の輪には入れない。
私がいないほうが話が弾むのなら、このまま帰ってしまおうかとも思うほどだ。
私は目の前で広げられている話を聞いているだけなので、ドリンクは誰よりも早くなくなり、手持ち無沙汰になり、話が終わるタイミングをひたすら待ちぼうけすることになる。
もちろん、早く終わらないかと思えばその分だけ長く話が広げられ、ドリンクバーを頼んでいようものなら、おかわりに向かう途中でも話が終わらない。
こんなときは、小休憩をつく目的で席を立つか、先に行ってくるように促してため息をつくかの2択である。
人といるので、周りの人からは友達の集まりだと思われているだろう。私だってそう思う。
しかし、テーブルを囲んで話し始めると、その場にいる権利をなくすのだ。
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いるのにいないような感覚。まさにさびしいと思うであろう。
学生のときも社会人のときも、同世代と話していると必ずと言っていいほど遭遇してきた。
さびしさを感じないようにするためには、こういった場に行かないことだと、さびしさを感じるたびに再認識し、自分に言い聞かせた。
1人のほうがよっぽど心地が良い。
家に帰ってソファーに身を沈めると、心の底からそう思う。
私にはこれが合っていると深くうなづき、社交辞令のまた会おうという文字を無表情で打ち込む。
若干の嫌味を含めた表情で送信ボタンをタップする。
人といるときに感じるさびしさは、何かを失ったために感じるさびしさとは種類が違う。
なくしたというよりも、手に入れられないというほうが正しい表現に近い。
目の前にあるものを掴めないのは、おあずけを食らった犬のようだ。
きっと表情もなんとも言えない表情をしているだろう。
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今まで1人をさびしいと思ったことはほとんどない。むしろ好きでそちらを選んできたほうだ。
人といるときのさびしさは、和らげる方法があるのだろうか。
もしあるならば、情報として知っておくぶんには役に立つだろうか。
さびしいと思うことを完全になくそうとは思っていない。
私はどんな行動をするかで変えられる範囲だと思っているので、対処できる範囲で向き合える。
長年感じてきたための経験値を持っているため、臨機応変に気持ちの切り替えができることも、いい武器となっているかもしれない。
私がさびしいと感じるのは、人といるとき、話の輪に入れずもどかしさを感じているときである。
1人でいるときよりも何倍も疎外感という名のさびしさを覚え、いるのにいないような不思議な時間の過ごし方で時が過ぎるのを待っている。
さびしさと向き合ったとき、無理やり解消してなかったことにするのではなく、私が持っている対処法で乗り越えていこうと思う。
せっかくいい武器を持っていると自画自賛できるのだから使ってみようではないか。