2025年03月29日

テストの点数でも、足の速さでもない…成績表で"5"を取るために教師が小学生に求める「理不尽な評価基準」

テストの点数でも、足の速さでもない…成績表で"5"を取るために教師が小学生に求める「理不尽な評価基準」
3/28(金) プレジデントオンライン

日本の学校は、テストの結果だけで子供の成績をつけなくなった。
公平性が増したように見えるが、どのような問題があるのか。
木村草太『憲法の学校 親権、校則、いじめ、PTA――「子どものため」を考える』(KADOKAWA)から、木村さんと教育社会学者の内田良さんの対談の一部を再編集して紹介する――。(第4回)

■“子供に寄り添った授業”がやりにくくなる

 教育現場では、今まさに劇的な変化が進んでいる。
全国の自治体や学校では、授業の進め方やルールなどを統一する「授業スタンダード」と呼ばれるものが広がりつつある。
教師の長時間労働などの背景を研究し、現場のリアルな声を発信してきた教育社会学者の内田良(うちだりょう)さんと議論した。

 【木村】
気になっているのは、「授業スタンダード」の導入です。
授業方法から挨拶などの生活指導まで、「こういう方法でやりなさい」というスタンダードが下りてきて、教師の裁量が低下する。
裁量性が広い双方向・探究型授業を行おうとするがゆえに、ノウハウが求められて、結果的にスタンダードが導入されるという事態になっています。

 ただ、教育法学でも憲法学でも、現場の教師の裁量は非常に重要だと言われているんです。
裁判官は子ども一人ひとりの顔は知らないし、どんな子なのかも分からない。
他方で現場の教師は、その教室の専門家として、時間をかけて子どもたちへの理解を積み重ねている。
その専門家としての判断を裁判官や法律家は尊重する必要があるし、裁判所にとっても、授業の方法が裁量を逸脱しているかどうか、違法性を認定することには非常に慎重になる。

 ところが、授業スタンダードが設定されると、「この子はもう少しゆっくり喋(しゃべ)ってあげた方がいいな」とか「この子たちは、この知識がないから、それを定着させてから次のプロセスに入ろう」といった判断が許されなくなってしまう。

■保護者に説明しやすいメリットもあるが…

 「メガホン」というウェブメディアが実施した教職員向けアンケートを目にしたのですが、それを見ると、現場の教員は、スタンダードに関して、メリットよりもデメリットを強く感じているようです。

 唯一のメリットと言えば、保護者に説明が出来ることぐらいだと。(メガホン「【教職員アンケート結果】学校や自治体で授業のやり方を統一する「授業スタンダード」どう思う?)」

 【内田】
授業スタンダードのメリットはその1点なんですよね。
「管理しています」という証拠として説明責任を果たせる。
例えば、鉛筆が1本なくなったと低学年の子どもが言い出すことがあります。こういう時のために、持ってくる鉛筆は5本と決めて、毎朝本数を確認しておく。すると、日中に1本消えたのだから学校で落としたと言える。

 こうした明確な説明がつきやすいと、何かトラブルが起きた時の説明もしやすいんです。「ちゃんと指導しています」という証拠になる。
そのため、嫌がる教師がいる一方で、コミットしてしまっている教師も多い。

■子供が“教師の顔色”をうかがうようになる

 【木村】
探究型・双方向型授業の問題点と重なるのが、全人格的評価です。

 【内田】
かつてテストの点数だけで評価していたのをやめて、観点別評価に変えていきましょうという仕組みですね。
子どもの力はテストだけで測定しちゃいけないだろうと。
具体的には、関心、意欲、態度が重視されるようになりました。
この子は授業中、こんなに元気よく発表しているじゃないか、それを評価に組み込んで評価の枠を広げましょうという趣旨です。
 この仕組みはおっしゃる通り問題があって、要するに教師の権限が広がって、子どものあらゆる側面を評価できるようになってしまうんです。
態度が悪い子どもを指導する、あるいは指導しなくとも、子どもは教師の顔色をうかがいながら学校生活を過ごすようになる。

 【木村】
じゃあ、どんな子どもが高いスコアを取れるかというと、実はテストが得意な子どもなんです。
評価軸ごとにノウハウを磨いて、それを満たすように振る舞うには、テスト対策と同じ能力が必要ですから。もともと目指していたものとは、乖離していく。

 【内田】
例えば苦手な教科は終わった後に質問しに行くことで意欲をアピールして、みたいなテクニックが生まれます。
それでスコアを上げて、推薦入試を狙うと。

■“体育が得意”なだけでは「5」が取れない

 【木村】
私の子ども時代には、「体育」が「5」の子どもはクラスのスポーツのヒーローだったわけですが、今「体育」が「5」の子どもは違います。
技能が出来るだけでは「4」までしか取れなくて、その後の振り返りで、「目標は◇◇だった」「○○の点ができなかった」「今後は、それを改善するために、△△に取り組みたい」みたいなことを表現できないといけない。
これはやはりずれていると思うんです。人格の評価は、技能の評価とは別で考えないといけない。

 【内田】
テストの点数だけで評価すると言うと冷たく聞こえますが、裏返すと「それ以外は自由でいいよ」という話じゃないですか。最低限の知識はテストで評価させてもらうから、他は好きにしていいよ、と。
この方が子どもにとっても良かったんじゃないかという感覚があります。

 テストの点数は悪くても意欲がある子どもに対しては、例えば教師が休み時間に声をかければいいわけですよね。
「この前の発表、良かったよ」とか。声をかけて褒めてあげれば、すごく自信が付くし、前向きに生きていけるはずなんです。「テストはダメだったけど、先生に褒められたもん」と思える。
それを数字化しようとするからおかしなことになる。「全人格的にあなたは『1』です」とか……。

 【木村】
たまったものではないですよね。

■教育は「技能を身に着けること」が目的である

 【木村】
『虎に翼』というドラマに道男(みちお)くんというキャラクターが出てきます。
戦災孤児が生活のために犯罪を犯してしまったのだけれど、更生していくという設定なのですが、寿司職人になって料理の技術は上がっても、接客と経理は出来るようにならない。

 普通のドラマだったら、彼は努力を積み重ねて成長するところでしょうが、『虎に翼』では無理なものは無理。
すると、「じゃあ私が手伝うわ」って他のキャラクターが出てくる。
得手不得手があって、個性を補い合いながら社会で生きている。人間って、そういうものであるはずなんです。

 それなのに全人格的評価は、「技能も人格も全部優れていて初めて高く評価されます」という仕組みになっていて、逃げ場がない。
教育は技能を身に着けることが目的であって、プロセスは自由でいいという発想に立ち返る必要があります。

■子供も教師も幸せにならない

 【内田】
こういう主張をすると、「テスト至上主義」というレッテルを貼られてしまいます。

 【木村】
「テスト至上主義」という批判は、多くの場合、批判対象がずれているんです。
昔、大学入試共通テスト改革で「1点刻み」の入試から抜け出す、という主張があったのですが、合格者の定員が決まっている以上、合否を分ける最後の線引きが1点差になるのは必然です。
「1点刻み」をやめたいなら定員を無くすしかない。

 【内田】
テストや偏差値が悪者扱いされてきた歴史には、確かにそれなりの理由がある。
では今が良くなっているかというと、そうは思えない。
現状は、偏差値がなくなったわけではなくて、すべてが偏差値になっているだけなんですよね。

 【木村】
そうなんです。教師側の負担も増えることになります。これまでは期末試験をやって採点すればよかったことが、毎日出欠を取って、手を上げた回数とかを記録しなければいけない。誰も幸福じゃないんです。

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木村 草太(きむら・そうた)
東京都立大学大学院法学政治学研究科教授
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内田 良(うちだ・りょう)
教育社会学者、名古屋大学大学院 教授
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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