古代史でもっとも有名な「聖徳太子」という人物は存在しなかった⁉ そのような名前の人間ではなかった⁉【ここが変わった日本の歴史】
6/6(金) 歴史人
近年、古代史に関する新発見や発掘調査による新たな見解が、度々世間を賑わせている。
そして、日本史の教科書において、この数十年で最も大きく歴史に対する認識・解釈の違いが発生したのが古代といっても過言ではない。
最新の研究・調査結果によって大幅にアップデートされた古代史をみていこう。
■聖徳太子の名前が違う? 聖徳太子の肖像は別人のものだった?
聖徳太子というと、日本古代史のみならず、日本史上で最も有名な人物のひとりといえる。
聖徳太子という名の他に、上宮王・厩戸豊聡耳・聖徳王・法王大王などともいわれる。
これらはいずれも聖徳太子の偉人性を称えたよび名であり、名は厩戸王(うまやとおう)である。
厩戸王は、574年に用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた。
『日本書紀』によると、出生のときから不思議な伝承がみられる。
たとえば、出産の日、間人皇女が宮司の視察をおこなっていた際、馬官の厩の戸に当たってしまい、そのとき産気づいたとある。
また、太子は生まれるとすぐに話すことができ、聖人のような知恵をもっていたという。
成長してからは、一度に10人の訴えを聞いて、それぞれに適確に答えたとか予知能力を備えていたとかともいわれる。
592年に推古が天皇になると皇太子となり、翌年には摂政の地位について政治をリードしたことになっている。
冠位十二階、憲法十七条の制定や、対外的には遣隋使の派遣などをおこない、一方では、『三経義疏』を著したり、法隆寺・中宮寺・四天王寺といった寺院の建立を推進し、仏教の興隆に尽力したとされる。
まさに、推古朝のスーパーマンといった感がみられる。
高等学校の教科書などにはこうしたスーパーヒーローとしての聖徳太子が描かれていた。
しかし、近年、こうした太子観に変化がみられ始めてきている。
まず、聖徳太子の表記であるが、かつては「聖徳太子」であったが、「聖徳太子(厩戸王)」となり、さらに、「厩戸王(聖徳太子)」と変化してきている。
これは、聖人としての聖徳太子から人間としての厩戸王をみつめようということであろう。
聖徳太子に関する見直しは、表記のみにとどまらず絵画にも及んでいる。
たとえば、「聖徳太子二王寺像」が挙げられる。
この絵は、聖徳太子像として現存するものの中では最古のものといわれている。
山背大兄王と殖栗王の2人の皇子を左右に伴い、絵の中央に聖徳太子を大きく描いた有名なものであり、唐本御影とよばれている。奈良時代の末期頃の作かとされており、法隆寺に伝来されたが、最近ででは、聖徳太子像としてみるのには疑問が残るといわれるようになり、「伝聖徳太子像」とよばれるようになってきている。
これらの他に『日本書紀』にみられる太子関係の記事への再検討も進んでおり、その結果として、太子に関するものはほとんどすべてが作られたものであるとして、「聖徳太子はいなかった」とする研究まで出されるようになってきている。
たしかに、推古朝の政治をみると果たして聖徳太子がひとりで自由に新しい政治をおこなうことができたか微妙といわざるを得ない。
当時、朝廷において最も力があったのは蘇我馬子であったと思われる。
天皇はいうまでもなく推古である。
それに対して、聖徳太子は、皇太子・摂政であったとされる。
ここにみられる皇太子はもっぱら『日本書紀』にみられるものであるが、推古朝にはまだ皇太子とよばれる地位はなかったといわれている。
また、摂政についても、皇族摂政といわれるものであろうが、本当に太子がこの地位についたかどうかは疑問とされている。
監修・文/瀧音能之
『歴史人』2025年7月号『ここが変わった!日本史の教科書』より
歴史人編集部