年配者こそ「どっちでもいい」と考えたら人生が楽になる<老害>にならずに穏やかに生きるために大切な思考方法とは…
7/16(水) 婦人公論
定年後、年配者としての話し方や振る舞い方が分からず悩んでいる人も多いのではないでしょうか。
作家の樋口裕一さんは「キーワードは、フランス語の『サメテガル』にある。
フランス人の日常会話でよく使われる言葉で、日本語に訳すと『どっちでもいい』となる」と話します。
今回は、樋口さんの著書『70すぎたら「サメテガル」: 「老害」にならない魔法の言葉』から一部を抜粋し、再編集してお届けします。
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◆年をとるほど白黒つける必要はなくなる
社会の第一線で活動しているうちはイエス・ノーを鮮明にする、白黒をつける場面が多い。
態度を決めて、その方向に踏み出す。
場合によっては、他者にそれを説得する。
反対する人がいたら、議論して、結論を出す。そうしないと物事が進まないからだ。
現役世代の人には、まだ長い未来がある。
何にでも「どっちでもいいよ」と言ってやり過ごすわけにはいかない。
選択できなかったり先送りしたりすれば、将来、大きな損失や大きな不幸に見舞われるリスクがある。
自分の不利益で済むならいいが、家族や組織を巻き込んでしまう恐れもある。
いい加減な態度で生きていくわけにはいかない。
社会で生き抜くには主張しなければならない。
自分の意見を通さなければならない。アピールしなければならない。競争に負けるわけにはいかない。
子どもを育てなければならない。家庭を維持しなければならない。義務がたくさんある。
それらをこなすには、自ら何かを決定しなければならない。
立場を決めて決断しなければならない。
場合によっては派閥に組み入れられて、別の派閥と敵対して行動しなければならない。
しかし高齢になれば、「選択しなければ将来が危ぶまれる」といったことはほとんどなくなるはずだ。
◆たいていの事柄はどっちでもいい
もちろん、高齢ではあっても仕事や大きな責任を抱えている人は、イエス・ノーの決断を優先しなければならない。
家族の安全や組織の利益を優先する必要もある。
だが、そうした人を除けば、実はたいていの事柄は「どっちでもいい」ことのように思う。
明日どこに行こうと、何を着ようと、何を食べようと、大した違いはない。
「どちらでもいい」と考えた結果、少しばかり不愉快な目に遭うかもしれないが、だからといってこだわって積極的に選んでいれば正解だった、とは限らない。
いまさら競争することもなく、強硬に主張することもない。
もはや派閥に属する必要なんてあるはずもない。
万一あったとしたら、派閥に縛られるような場所からとっとと逃げ出すほうがいいだろう。
どちらを選んだところで、大きな差はない。
これまではほんのちょっとしたことを大袈裟に考え、生死を分けるかのように錯覚して主張したり、夢中になったりしてきたが、年配者になれば人生そのものが保留状態。
毎日毎日の選択や決断によって、人生が大きく更新されていくわけではない。
一線から退いたということ、それは「イエスかノーか」「白か黒か」の選択をしなくてもよくなった、ということだ。
少なくとも、明確な決断を迫られる場面が圧倒的に少なくなったことは間違いないだろう。
◆それでも白黒つけたがる年配者
高齢になって、鬱になり、脱力してしまう人がいる。
脱力ならまだしも、悪質なクレーマーとなって周囲に迷惑をかけてしまう人もいる。
「老害」と評される年配者がいかに多いことか。
役所やお店で大声で怒鳴る年配者、公的機関に電話をかけて長々と説教したり、政治的な意見を一方的に力説したりする年配者が後を絶たないという。
テレビやネットニュースなどで知るだけではない。私と同世代の何人か、あるいは年上の友人には、まるでよいことをしたかのように「役所に電話して、1時間くらいかけて熊の殺処分がどんなにひどいことかを説明してやった」と話す人もいた(私は「それはクレーマーですよ。度がすぎれば逮捕されるかもしれません」と注意するのだが、伝わったかどうか疑わしい)。
そんな年配者たちは、社会の第一線で活動していた時期の価値観を引きずっている人が多い印象だ。
昔の癖が抜けず、誰かと競争したくなり、アピールしたくなり、人に命令したくなり、「こうあるべきだ」と言いたくなる。
そして誰かの言いなりになるのを拒み、自分にかつてのような発言力や行動力がないのを情けなく思い、その怒りを社会にぶつける─そんな人たちだ。「サメテガル」な生き方を知らないのだ。
いまこそ、サメテガルの思考を年配者は身につければいいのに、と思う。
そうすれば平穏で、大きな怒りを覚えずに過ごしていけるのではないか。
老害をさらすのはほどほどにして、自分でもそこそこ満足して生きていけるのではないか。
◆年配者の穏やかな生き方
『異邦人』のムルソーが口にする「サメテガル」には、「もうどうでもいいや」というような厭世的な雰囲気もある。
「おれの知ったことじゃない」といった、自分や自分を取り巻く社会への無関心もある。
やがて殺人を犯すことによって、ムルソーは「サメテガル」を口癖にしていた自分を反省する。
「サメテガル」という言葉は本来、必ずしも好ましい言葉ではない。
だが、この言葉を前向きにとらえてはどうだろう。
社会に背を向けて拒否するのではなく、「どれでもいい」「どっちでも同じだ」を積極的に考える。
「どれもいい」「どれを選んでもよい」と考える。
さまざまな事柄に対して肯定的に「サメテガル」を心掛けることこそ、年配者の穏やかな生き方だと思うのだ。
少し周囲から我が身を離し、シャカリキにならず、決めつけるのでなく、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらでもいい」と考えてみる。
あるいは、もっと進んで、「どれでもいい。どれも同じことだ」と考えてみる。
冷静になって社会を眺め、渦の中からではなく、外側から物事を考えてみる。
そんな生き方を「サメテガル」の言葉から感じ取ってはどうだろうか。
ともあれ、「サメテガル」とつぶやいてみる。
そうすると、ぐっと人生が楽になるだろう。
依怙地になっていた自分から逃れられ、さまざまな事柄から距離を置ける。心が解放されるのではないか。
◆「冷めてやがる」=「熱くならない」
サメテガルは「熱くならない思考」といえよう。
「どっちでもいい」と考えれば、ムキにならない。
「こうに決まっている!」と他の意見を排除したり、拒絶したりすることもない。
心の中で、あるいは小声で「サメテガル」とつぶやけば、熱くなりかけている自分をクールダウンさせられる。
私が「サメテガル」について話したところ、その語感からある知人は日本語の「冷めてやがる」を連想すると語った。
駄洒落のように聞こえるが、まさに的確だ。
実際、「サメテガル」にはそんなニュアンスが含まれる。
熱くならず、冷めて周囲を見る。無理をせず、ほどほどに考える─そんな雰囲気が「サメテガル」という言葉には漂っている。
もう一人、私が話すと、「冷めて手軽?」と聞き返した人がいた。
これも的確だと思う。このフランス語は日本語と実に相性がいい。
まさに、熱くならずに周囲を見て、手軽に行動するのが「サメテガル」の思考だ。
何か強く思い詰めていても、ふと「どっちでもいい」と考えた途端に、その思いは冷めていくだろう。
最初に抱いた考えは絶対的なものではなくなり、別の考えと同等の「どちらでもいい」ものになる。
冷静になり、客観的になって物事を眺められる。
思い詰めて突き進むのは周りの誰かに任せておけばいい。自分はそこから離れて穏やかに過ごす。
何かのために熱心に活動することはなるべく避ける。徹夜して頑張ったりもしない。手軽にできることに手を出す。
基本的に「どちらでもいい」と思っているのだから、それほど気合いを入れたりはしない。
他者に何か誘われても、基本的に「どっちでもいい」と考える。
そのうえで場合によっては賛同してもいい。誘った人からすると、「お前、冷めてるなぁ」と物足りなく思うかもしれない。ともあれそのように考えて行動すれば、たいていの人と面倒にならず、ほどほど良好な関係を結ぶことができるだろう。
だからといって、頑張っている人や熱い思いを抱いている人を否定するわけではない。
世の中にはいつまでも積極的に活動しようという年配者がいる。
サメテガルを心掛ける人は、そのような「熱い人たち」に仲間入りしようとは思わないが、同時にそのような人を否定もせず、「どっちでもいい」と思う。もちろん「サメテガル」を周囲に強要することもない。
「どちらかというと、どちらでもいい」─小論文としては間違いなく不合格だが、私はそう思って行動している。
◆適当な結論を探る「先進的な行為」
ところが「どっちでもいい」という思考は、実はあまり評判がよくない。
親しい人とレストランに行く、イベントに行く、映画を観る。そんなとき、「何にする?」と聞かれて、「どっちでもいい」「なんでもいい」と答えていると、優柔不断なヤツとみなされることがある。
最悪なのは「どっちでもいい」と言ったにもかかわらず、後になって「別のほうがよかった」と言い出すパターンで、そうなると軽蔑の対象になりかねない。
社会に参加してバリバリと仕事をしている時期であれば、「どちらでもいい」という態度は「決断力の欠如」と評価される。
年配者であっても、人生の極めて大事な局面で自ら決定できないのは問題があるだろう。
自分の死後の財産の処分などについて、何も決めずに遺された家族に丸投げすると、家族は困ってしまうだろう。
しかし「何を食べるか」「どの映画を観るか」といった事柄について、「どちらでもいい」と答えるのは決して非難されることではないと思う。
最終的な決定権を相手に譲り、ゆるやかに話し合って決めていこうという意思表明だからだ。
その態度が非難されやすい背景には、「男は女をリードするべきだ」という昭和的な考えもあるかもしれない。
「どっちでもいい」と口にして不興を買うのはもっぱら男性が多いように思う。
女性がそのように答えたら、かつては「おしとやか」と好意的に思われたのではないか。
だが時代は移り、男性が女性をリードすべきだという桎梏が外れたいまとなっては、男女関係なく決定権を譲り合って、話し合いで適当な結論を探る「先進的な行為」になるだろう。
「サメテガル」という態度であれば、自分の考えを人に押しつけず、独りよがりにならず、相手を尊重しながら生きていける。
◆つぶやくだけで「満ち足りた隠居生活」
私が子どもだったころは、世間を引退したら郊外に構えた小さな住居で、小さな家族だけを守って静かに穏やかに暮らす─というのが、多くの人にとっての理想であり憧れだったと思う。
社会とのつながりは必要不可欠なだけにして、穏やかに、楽しく生きる。多くの日本人がそのようなささやかな「理想の老後」を描いていた。
ところが、いまでは「いつまでも現役でいたい」「定年後も働き続けたい」と考え、生涯現役を求める人が増えてきた。
いつまでも頑張り続けようとする人が増えてきた。
社会福祉制度への不安や物価高といった経済的な要因も大きいのだろうが、隠居の夢を持たないのはあまりにつらい人生だと私は感じる。
もちろん働くのはいい。私も生き甲斐を持つ程度に仕事をしていくばくかのお金は稼ぎたいし、死ぬまで何らかの社会的な貢献はしたい。
ただし、周囲に振り回されたくはないし、余計な力を入れたくない。マイペースを守り、自分の嫌なことはできるだけ避けて生きていきたい。
そうはいっても隠居部屋をつくるのはなかなか難しい。住み慣れた家を離れるのも億劫だし、お金もかかる。
では、どうするか。
「サメテガル」を心掛けるだけでいいのではないか。
そうすれば心の中だけでも隠居状態になれる。かつて多くの人が憧れていた「隠居」と精神的に似たところがある。
何かあったら心の中で「サメテガル」とつぶやき、他者に何か言われても心の中で「サメテガル」と答える。
わざわざ人里離れた場所に居を移す必要はない。座禅を組んだり写経をしたり、修行めいたことをする必要もない。無理して何かのトレーニングをする必要もない。ただ「サメテガル」とつぶやく。それだけでいい。
「サメテガル」という言葉は、実は限りなく豊かな思想を秘めている。
※本稿は、『70すぎたら「サメテガル」: 「老害」にならない魔法の言葉』(小学館)の一部を再編集したものです。
樋口裕一

