2025年10月06日

『3年B組金八先生』の「腐ったミカン」発言が“生徒の選別”と大人の暴力性を浮き彫りにしたワケ

『3年B組金八先生』の「腐ったミカン」発言が“生徒の選別”と大人の暴力性を浮き彫りにしたワケ
10/5(日) ダイヤモンド・オンライン

 1980年代に放送された学園ドラマ『3年B組金八先生』は、学校教育が抱える問題を真正面から描いた作品として語り継がれている。
そこには、教師と生徒の関係性や、学校で行われる“線引き”に対する問いかけが込められていた。
漫画『ドラゴン桜2』の編集を担当した西岡壱誠氏は、そんなドラマが映し出した教育観を読み解きながら、生徒の“分け方”がもたらす影響について考察していく。
※本稿は、西岡壱誠『学園ドラマは日本の教育をどう変えたか “熱血先生”から“官僚先生”へ』(笠間書院)の一部を抜粋・編集したものです。

● 伝説として語られる学園ドラマ 「金八先生」が描いた80年代

 「できる生徒とできない生徒の二極化」の対立軸がはっきり描かれたのが、「3年B組金八先生」だった。
このドラマはスペシャル版も合わせて長寿番組となるわけだが、どのシリーズでも「その当時の生徒の抱える問題」について触れられていく。

 最初の第1シリーズでは「中学生の出産」と「受験戦争を苦にする自殺」が描かれ、第2シリーズでは「教育困難校」がテーマに、第3シリーズでは「生徒の無気力」が描かれることとなった。
その中でも、「金八先生と言えば」と言われるのが「第2シリーズ」であった。

 これが「伝説」と言われるようになったのは、やはり当時の時代背景を反映し、そこに真っ向から大人がぶつかって解決していくというストーリーがお茶の間に受けたからだと言えるだろう。
第2シリーズを象徴する言葉として、「腐ったミカン」というキーワードがある。
これは、作中に登場する加藤という不良生徒のことを指す言葉であった。

 加藤は荒れている荒谷二中から、金八先生の桜中学にやってきた問題児であり、最初は先生の話を聞こうともせず、他の生徒と問題を起こしてばかりだった。

 しかしそんな加藤に対しても、主人公の金八先生は真摯に対応する。
不良の溜まり場に行って、加藤を庇う暴走族関係者2人も交えて、4人で話をする。

 「金八先生」vs.「現暴走族リーダー&元暴走族リーダー&加藤」という構図で、一触即発の展開であるが、金八先生はビビりながらもしっかり話をしていく。

 最初は荒々しい空気だったが、途中で金八先生が「腹減ってしまったから、飯を作らせてもらえないか」と言い出し、焼きそばを作ってみんなで食べたあたりから、割と向こうも心中を話してくれるようになる。

● 教育を受ける側の権利を熱く説く 区別された側が抱く不公平感とは

 金八先生は「義務と権利」の話をする。
加藤は「学校に行かなければならない義務があるなんて、人権侵害だ」と言うが、それに対して金八先生は強い口調でこう言う。

 「加藤、お前は、教育を受けることができる権利がある。義務じゃない。
だから授業がわからなかったら、『わからないから教えてください』と言う権利があり、それに学校・先生は答えなければならない。
だが授業にも来ないのに『わからない』『ついていけない』というのは筋が通らないだろう」と。

 この加藤への金八先生の対応は、体当たりという他ない。
不良である加藤に多少ビビりながらも、不器用でもきちんと話をしていく様子が描かれている。
このような熱い先生像というのが、1980年代ではずっと続いていくことになる。

 それに対して、加藤の先輩だという元暴走族のリーダーである岸本という人物がこんな話をする。

 「一体人間ね、生徒を成績だけで区別できるもんなのかね。先公は、平気でこっちのことを区別しやがる。
で、先生ってのは、頭がいいやつがなるだろ。だから、勉強ができないやつのことがわかんないんじゃないか。だから平気でこっちの傷つくことを言いやがる。
その上タチが悪いのは、先公は権力を持っていやがる。生意気だったら停学だ、3回喫煙したら退学だって言ってくる。
退学って言ったら一生モノの話だよ?横暴だよ」と。

 岸本は、荒っぽい人物ではあるものの、割とまともに話ができる人として描かれている。
そんな人物が、中学までの教育を振り返ってそんな風に語っているシーンは、視聴者も「まあ、確かになぁ」と思ってしまう。

 だがそんな岸本にも、手を差し伸べてくれた先生がいた。
金八先生の同僚の上林先生だった。
金八先生は、「リーダー、君に上林先生がいたように、加藤にも俺を預けてくれないか」とお願いをする。
リーダーはそれを承諾し、加藤は金八先生に預けられ、真っ当になっていく。

● 金八先生の「腐ったミカンの方程式」 不良は切り捨てれば良いのか?

 順番は前後するが、ここに行く前に、金八先生に対してある人物が訪ねてきていた。
それは、加藤の前の担任である(荒谷二中の)米倉先生だった。
その米倉先生が語った言葉こそが、「腐ったミカンの方程式」だった。

 「ミカン箱の中にカビの生えたミカンが1つでもあれば、他のミカンにもカビが繁殖し、結果的に全部のミカンがダメになってしまう。
同じように、クラスの中に1人でもダメな生徒がいれば、生徒全員がダメになってしまう。
だからこそ、腐ったミカンは早めに取り除くべき」

 それが、荒谷二中の考え方であり、加藤は「腐ったミカン」として桜中学に放り出されたのだと。
自分(=米倉先生)はその方程式を間違っていると思うが、庇い切れなかったのだ、と。
たしかに岸本の言っていた通り、彼らは「出来の悪い生徒」として差別された側だったわけだ。
「優秀な生徒を伸ばす教育でいいのか?いろんなきっかけで『不良』と呼ばれる生徒になってしまった10代を、見捨てていいのか?」

 この「腐ったミカン」発言の根底にあるのは、「できる生徒とできない生徒の二極化」だろう。
この当時学校に蔓延っていた、「できる生徒の方を伸ばすのが教育の意義であり、できない生徒ができる生徒の足を引っ張るようなことがあってはいけない」という価値観を象徴するような考え方だと言える。

 そしてそんな思想に対して真っ向から反対する存在として、金八先生は描かれている。
先ほど加藤に語った「生徒には、授業を受ける権利がある」という考え方は、「腐ったミカンは放り出してもいい」という考え方に対するアンチテーゼになっている。

 加藤には授業を受ける権利がある。
それにも拘らず、加藤が悪い生徒だからという理由で放ってしまうというのは、先生が本当に大切にするべき教育の本質的な部分を放棄していることになりはしないか?不良だとレッテルを貼って、放っておいていいのか?

 金八先生が問いかけるのは、そういうテーマである。
これは、社会全体に対する問いかけでもある。
要するに「優秀な生徒を伸ばす教育でいいのか?いろんなきっかけで『不良』と呼ばれる生徒になってしまった10代を、見捨てていいのか?」というものだ。

● 「人間として向き合ってほしい」  大人の暴力性に反旗を翻した生徒

 さて、ちょっと脱線するがこの「金八先生」第2シリーズは、このメインテーマに本気の本気の本気で向き合っていて、「え、そこまで描くの!?」というくらい突っ込んだ話になっている。
加藤のもともとの母校・荒谷二中は依然として「腐ったミカンの方程式」を掲げ、不良や落ちこぼれに対する締め付けをどんどん厳しくしていく。

 そして荒谷二中の不良は、助けを求めて昔の仲間である加藤の前に現れる。
加藤は悩むが、荒谷二中に殴り込み、校長と教頭を放送室に監禁する。
視聴者としては「いや何してるんだ加藤!?」という展開だが、学生運動とその後の校内暴力で荒れた時代だったので、この展開も時代背景的には一定程度、理解できなくもない。

 そして、ドラマ史に残る名シーンに繋がる。
金八先生から言ってもらったことを、荒谷二中の先生たちに語り、「俺たちと人間として向き合ってくれ」とお願いする。

 加藤のその言葉が通じたのか、校長は自分たちの非を認め、謝罪をする。
その声を聞いて荒谷二中の生徒は大喜び。「加藤!加藤!」という声が校内に響き渡るが、そこに急に警察が入ってくる。

 ここでいきなり、すべての声・すべての音が消え、中島みゆきの「世情」が流れる。
静かな歌でありながら、圧倒的なエネルギーを持つ歌声が流れる中で、画面ではすべてがスローモーションで展開していく。

 警察に逮捕されるも無抵抗の加藤、逃げ惑いながらも捕まっていく生徒たち、叫ぶ金八先生、そして、移送車に乗せられて送られる加藤のことを、泣きながら走って追う加藤の母親…。

 もちろん物語はこのまま終わらず、逮捕された加藤たちに対して、君塚校長の奮闘や放送を聞いていた近隣住民・保護者たちからの声もあり、ちゃんと釈放されて、金八先生が加藤たちと抱き合い、「お前たちは俺の生徒だ!」と力強く言い放ったのであった。

 そんなハッピーエンドに終わったにも拘らず、この3分程度の短い映像のインパクトは、強烈だった。
本当に多くの人の心に、この時代の大人の暴力性が刻まれたワンシーンだったと言っていいだろう。

● 中島みゆきの歌声が重なる名場面 金八は学園ドラマのテンプレに

 金八先生の奮闘も、生徒1人ひとりの純粋な想いも、公権力という圧倒的に大きな力の前には無力になってしまう、ということを表すかのようなシーン。
中島みゆきの滔々としているにも拘らず心強い歌声と、それを後押しするようなコーラス合唱。そしてその裏で展開される、無情にして圧倒的な抑圧…。

 この当時、体罰も校内暴力も、ある意味では「普通の」ことだった。
荒れている学校があるのも「当たり前」として受け入れられ、卒業式のとき、学校に警察が配備されている光景も珍しくなかったという。

 そんな中で、このドラマは「社会が、不良を作り出しているのではないか」というメッセージを、我々に突き付けた。
我々が無関心のうちに肯定している「腐ったミカンの方程式」の持つ暴力性が、このシーンによって浮き彫りになり、当時の世相に一石を投じたと言えるのではないだろうか。

  後にも先にも、ここまで社会問題の核心に切り込んだドラマは他にはないだろう。
「3年B組金八先生」が32年も続く超長寿ドラマになったのは、このワンシーンのインパクトがあったからだと考えられる。

 そしてこの時期から、「熱血で、不良のことを見捨てない先生」という存在が、かっこいい存在として憧れられるようになって、コンテンツの中での1つのテンプレートとして描かれるようになる。

 後に続く「ごくせん」「ROOKIES」 などの数多くの学園ドラマが、「金八先生的なテンプレート」で作られるようになっていった。

西岡壱誠
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 教育・学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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