2025年10月07日

新総裁で日本は変われるのか?自民党に迫る“徳川幕府の末期”とあまりに似た4つの危機

新総裁で日本は変われるのか?自民党に迫る“徳川幕府の末期”とあまりに似た4つの危機
10/6(月) ダイヤモンド・オンライン

 歴史には数々の「失敗」がある。
この真実を読み解くことで、時を経て繰り返される現代の失敗に向き合う連載『歴史失敗学』。第9回は、幕末期の徳川政権と今の自民党の状況に共通する「危機」について考察する。(作家・歴史研究家 瀧澤 中)

● 日本史上異例の長期政権・徳川幕府は なぜ支持を失ったのか

 筆者は、歴史と現代との偶然の一致をことさらに挙げて危機を煽る気など毛頭無いが、それにしても幕末には現代との奇妙な一致点が多い。

 ・外圧
 ・物価高(米価高騰など)
 ・住民の直接行動(幕末は打ち壊し、今は投票行動)
 ・多党化

 265年間という日本史上異例の長期政権であった徳川幕府。
同じく、自由選挙の保証された近代国家では最長の、70年近く政権を担ってきた自由民主党。

 過去、スウェーデンの社民党やフランスの保守連立政権、イスラエルの労働党やカナダの自由党なども長期政権ではあったが、そのいずれも50年を超えて政権を維持したことはない。

 世界でも類例を見ない安定政権の担い手であった自民党が、危機的状況と言われる中で行なわれる総裁選。

長期政権・徳川幕府がなぜ支持を失ったのか。
その失敗を考えながら、現代の日本政治再生へのヒントを探りたい。

 幕末、徳川幕府が直面した外交は、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの「大胆な態度をとり、威嚇的な口調を示せば、日本人は直ちに私に従う」という言葉に象徴されよう。

 安政5(1858)年の日米修好通商条約では、日本の関税は米国の言うがままとなった。
これは現代のトランプ政権下の関税問題と本質的に変わらず、軍事力や経済力を背景にした「砲艦外交」が形を変えて続いているように見えてしまう。

 外交交渉の苦労を評価しないわけではない。
日米和親条約の交渉担当者・林復斎は、交渉時にペリーが威嚇目的で大砲を撃っても動揺せず、ペリーの主張を論破しながら妥協点を見いだした。

 アメリカは林復斎を「厳粛で控えめな人物」と評した。
林は、調印に浮かれて満面の笑みで握手などしていない。そんな内容ではなかったからである。

 そして嘉永6(1853)年の黒船来航以後、幕府の開国方針や政治手法に反発する勢力が生まれ、やがて発言力を持って幕府一強体制が崩れていく。

● 物価高に徳川幕府はどう対応した? 「五品江戸廻送令」とは

 いわば「多党化」が進むわけだが、その要因は開国だけではない。
ボディーブローのように効いたのは物価の高騰である。物価高は幕府に対する信頼を失わせた。

 物価高騰の原因には、たとえば金の流出があった。

 嘉永7(1854)年の日米和親条約調印後、通貨のレートについて交渉が行なわれ、1ドル銀貨1枚=1分銀で落ち着いた。
ところがその後日本にやってきたアメリカ駐日米総領事のハリスはこれを認めず、1ドル銀貨1枚=1分銀3枚というレートになった。

 つまり、日本で銀を金に換え、その金を海外で銀に戻せば、なんと両替だけで3倍の利益を生む。

 幕府は対策として、金の含有量を3分の1にした万延小判を発行した。
これで金の流出は止まったが、市中に出た通貨量は3倍に。
激烈なインフレになり、一説に江戸の物価は短期間に5倍になったという。

 幕末は、とにかく物価が高騰している。
開国によって生糸や蝋、お茶や昆布や干魚などが輸出され、そのせいで国内では品薄となって価格が高騰。米価もすさまじい値上げラッシュだった。

 元治元(1864)年米は1石あたり200匁。それが2年後の慶応2(1866)年には1300匁。わずか2年間で6倍強の値上がりである。

 幕府はむろん、手をこまねいていたわけではない。

 レート問題では、結果は出せなかったものの使節をアメリカに送るなど必死の交渉を重ねた。
物価高への具体的な対策としては、たとえば「五品江戸廻送令」がある。

 地方の商人たちは江戸を通さず、横浜など外国人居留地で外国と直接取引をした。その方が儲かるからである。

 現代のように多様な流通が存在するならまだしも、100万の人口を抱えた江戸が流通経路から外されモノが減れば、物価が上がるに決まっている。

 幕府は、雑穀や呉服、生糸など生活必需の五品について「江戸に廻せ」と廻送令を出す。
ただし商人や外国人からの反発もあり、中途半端に終わった。

 命令が徹底できないほど、幕政は衰えていたのである。
外圧も、それに影響を受けた物価高も、連動して起きる打ち壊しや一揆、京での勤皇派による暗殺事件の頻発など、立て続けに問題が起きた。

● 時代に乗り遅れた幕府の政策 しかしもし開国をしなかったら…

 これらが解決しない理由は何であったか。
幕府の政策決定と実行力が、もはや時代のスピードに追いつかなくなっていたことに尽きる。
個々に見れば幕府は、与えられた条件の中でベストとは言えないがベターな政策選択を行なっている。

 たとえば開国。
もし開国をしなければ、欧米列強は力で攻め込んできたであろうし、そうなれば日本の敗戦は必至であった。
傍証として第二次長州征伐の折、近代兵器と近代戦術を駆使した長州軍が、数で言えば30倍の幕府軍に勝利したことからも明らかである。

 そして尊皇攘夷を謳う勢力に倒される幕府だが、形式上とはいえ「朝廷から政権を預かっている」という体裁で天皇を上位に置いていた。

 象徴的なエピソードとして、尊皇攘夷派から蛇蝎のごとく嫌われていた会津藩の松平容保が、孝明天皇から下賜された宸翰(天皇からの御手紙)を生涯肌身離さず持っていたことが知られている。
つまり松平容保は勤皇家でもあったのである。

 現実的な平和外交。
出来うる範囲ではあったが、懸命な経済政策。勤皇の精神。一体何が幕府への支持を失わせしめたのか。
もっとわかりやすく言えば、「物価が上がったのは幕府が開国したからだ」「悪いのは幕府だ」「やつらは何もしてくれない」、そう人々に思わせたものは何であったのか。

 第1は、多党化への対応の遅れである。
黒船来航によって幕府一強から、薩長など雄藩や朝廷が発言力、つまり政治力を持ち始める。
老中・阿部正弘はその予兆を嗅ぎ取って、それまでタブー視されていた御三家や有力外様大名が参加した連立政権を模索する。

 しかし、阿部の試みは阿部自身の死去によって消えていく。
そして同じく多党化を敏感に感じた井伊直弼は、阿部とは正反対に多党化を許さず、幕府一強を守るため政治的粛正を行なった。

 井伊直弼の死後、徳川慶喜が政権の座につくと、慶喜は多党化を受け容れようとした。

 「政権を一度朝廷にお返しし、その後雄藩による連立政権をつくり、国政運営経験の豊かな私がそのトップに座る」という構想を抱いた。大政奉還である。

 ところが薩長は、もはやただの雄藩ではなく徳川幕府をも凌駕する政治勢力に育っていた。

 幕府はもっと早期に連立政権を実現すべきであったし、そうすれば幕府では掌握しきれない、「多党」の持つ多様な意見を政策に反映することができた。

● 多党化が進んだ理由は? 不満のはけ口が必要だった

 第2に、政策ニーズの把握不足である。
 なぜ多党化が進んだのかといえば、それは幕府が世論に鈍感で、取りこぼした世論があふれかえっていたからである。
取りこぼされた人々は、自分たちの不満を代表してくれる勢力を支持する。

 現代の日本政治で言えば、これだけデジタル化が進みビッグデータの活用基盤が整っていても、政治中枢でこれらを駆使した情報収集、課題抽出をしているとは寡聞にして聞かない(一部議員は活用しているが、政府や党の取り組みとして十分とはいえない)。

 国会議員が地元で直接有権者の声を聴くのは当然として、そこに無い声をどうやって政策に反映するのか。幕府がついに実現できなかった点でもある。

 そして第3に、説明・啓蒙の圧倒的不足。筆者は特にこの点を強調したい。

 黒船来航から15年で幕府は崩壊する。
この間、政権を運営した老中たちは各地の雄藩や、必要に応じて朝廷にも理解を求め説明を行なっていた。

 しかし幕府が説得したのは主として、幕府内の実力者や親藩大名、有力譜代大名、せいぜい雄藩と言われる外様大名までであった。

 安政の大獄での処罰対象者を見れば、世の中を動かす層がもはや大名クラスではなく、より幅広くなっていることがわかる。

● 忠誠を誓った人物からの 手痛い幕府批判

 処罰対象者は藩主クラスもいたが、中・下級武士も多く、吉田松陰や橋本左内、梅田雲浜や頼三樹三郎など、学者層も多い。画家や名主、町人や僧侶も含まれる。
つまり幕府自らが彼らの影響力を認めていたにもかかわらず、それらの層に説明も説得もなされなかった。

 説明、啓蒙の大切さについて、旧幕府の関係者が指摘をしている。

 福地源一郎。
下級ではあったが幕府の能吏として知られていた福地は、自著『幕府衰亡論』(明治25[1892]年)の最後に、たたみかけるように政策説明と啓蒙の大切さを説いている(以下意訳)。

 「軽々しく攘夷で外国船を襲ったりせず、平和外交に徹したのは幕府の見識であり力である。
もしこのとき、『開国して欧米の文明を取り入れ、近代化したあとに外国と対抗すべし』と明示すれば、幕府の威令はもっと続いたであろう」

 「安政5、6年の頃なら、もっと朝廷に丁寧に、一所懸命開国の理を説いていれば、幕府の信用をつなげた」

 「文久1、2年の頃なら、はっきりと『鎖国政策は終わった』『攘夷はやらない』と明言し行動すればよかった。
それなのに外国船を攻撃した長州や薩摩に対して、幕府はそれを止めにいかず戦争させて放っておいた」

 福地源一郎は徳川慶喜を敬愛し、旧幕府に対する忠誠心を強く持ち続けた人物だけに、その幕府批判は傾聴に値しよう。

 幕府の政策は根本から間違っていたのか?
もしそう間違えではなかったとしたら、それは人々に対する伝え方に問題があったのではないか。

 明治政府の「欧米列強の文明を取り入れて近代化し、その後に欧米と対応する」という方針は、実は井伊直弼も攘夷の本山・水戸の徳川斉昭も考えていたことであった。

 政治的には井伊直弼に連なる、そして官軍に処刑された小栗忠順は横須賀製鉄所をはじめ、のちの陸軍士官学校につながる横須賀仏蘭西語伝習所をつくり、小銃や大砲の国産化、日本初の火薬工場設立、日本初の巨大商社(兵庫商社)や錦絵でも有名な築地ホテル館建設、さらには近代郵便制度の基本まで考えている。

つまり、幕府は政策で誤ったというよりも、政策への理解普及に失敗した、その政治手法に問題があったというべきではなかろうか。

 だとすると、与党が経済対策を何もやっていないかのような誤解を生むのは、彼らの説明不足、そして説明すべき相手を間違えているからとも言える。

● 発信の需要性は今も昔も同じ 手段は時代によって変化

 何を、誰に向けて、どのように発信するのかは、時代によって常に変化する。

 たとえばSNSについて、胡散臭いとか、ああいうことをしているのは選挙に行かない連中だ、という思い込みがあるのではないか。

 たしかにオンライン上には真偽不明の情報があふれているが、それを参考にする国民が一定数いる以上、そして政党の政治活動の枠外にいる人々がそこに多くいるとするならば、ここを説明の場の重要拠点の一つとしなければなるまい。

 幕府が限定的な範囲でしか政策理解を求めなかった失敗を、犯すべきではない。

 筆者は幕府の失敗に、指導者の資質を加えなかった。
もとより指導者の資質は重要だが、どれだけ有能な人物であっても時代の制約を受ける。

 徳川最後の将軍慶喜は、個人として有能であったことは周辺の証言から明らかである。

 しかし、「慶喜さん、あなたは名ドライバーだから、きっと良い運転ができます」と言って乗せられた自動車は、見てくれば立派だがエンジンも古くタイヤはツルツル、ガソリンもほとんど入っていない。

 慶喜は、急坂を落ちていく車の中でただ微妙にハンドルを左右に動かすことしかできず、最後は乗員を見捨てて降車してしまった。

 自民党がいま急坂を落下している状態なのかはわからない。
少なくとも民主党に政権交代した折はもっと議席が少なかったのだから、あるいは急坂を下りる手前かもしれない。

 時間がまだあるならば、次の総裁は多党化に対応して多様な意見を取り入れ、政策を国民に説明し、福地源一郎の言葉を借りれば「諄々(じゅんじゅん)と」啓蒙し、堂々と国民の判断を仰ぐ人物であってほしい。
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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