2008年10月25日
私の大切な人@
<父親紹介>
大正15年生まれで高等小学校卒。戦時中 志願して海軍の海兵団に入隊。上官に恵まれ、終戦ギリギリまで「長男だから」と特攻要員に組み入れられずにいたが、終戦間近に一式陸攻の6名の搭乗員の一人として特攻出撃を待つも辛うじて出撃前に敗戦。
戦後は 関東電気○○(株)→○○精糖に。私が小学校の頃に大合理化があり、その時の組合委員長。闘争ニュースや社宅の人間関係が微妙になった頃、私が小学校卒業。
父の読書量や知識は、未だに衰えを見せず「生きる力」と学歴とは関係ないなと思うほど 今だに太刀打ち出来ない教養人。
貧乏だったのにも関わらず息子には「本物の食事・映画・観劇など」に連れていってくれ、「本物を知らなければ、偽物に惑わされる」が口癖でした。
<母親紹介>
昭和5年生まれ、小学校卒。戦時中は准看護婦として傷病兵の看護。
父との結婚の経緯は 共に言い分が異なり不明。
小さい時、近くの映画館で「モスラ」や「ゴジラ」、縁日によく連れていってもらいました。小学校・中学校に忘れものや傘を届けに来てくれる時、方向が分からなくなった方向音痴は今も健在。
父が3交代勤務だったので、昼間寝ている時 騒ぐと叱られたものです。歳とともに性格が丸くなり 雑学は結構多いです。
父の影響を受けたのか、私も組合書記局・青年部委員、執行委員、地区協議長・副議長などを長年やってきました。
エピソードを上げればきりがないのですが、私が 今 病を持ちながらも生きる支えになっているのも「苦労人」の父母の存在が大きいことは確かです。
2008年10月26日
私の大切な人A

今の病院とはT市からK市に異動してから約24年のお付き合い。胆囊ポリープが大きくなって癌化の恐れありと、切除手術・入院をして以来の付き合いです。
<内科のM先生、H先生>
M先生とは、高血圧や高脂血症で長く主治医をしてもらい、一昨年のうつ初発の時に「精神科」にすぐ紹介状を書いてくれた先生です。
口癖は「ダイエットと禁煙」でした。CTスキャンで心臓の動脈硬化を発見してくれた先生です。厳しい健康管理の傍ら、内科か精神科か早期に判断をしてくれたことに感謝です。
H先生には、4月の当番医変更の時からお世話になっています。
「うつ」との関係も理解されていて、今ムリして禁煙のストレス負荷は避けた方がいい→でも徐々に禁煙に移行してね、と温厚だが、あからさまに強要しない所がいい。今の小だぬきは「ダイエットが課題」とのこと。
<精神科K先生、M男先生、M女先生>
K先生には、初診から3ヶ月、職場復帰までお世話になりました。今の小だぬきには職場からいろいろな書類・判断を求めてもムリだ、何かあったら主治医を通して欲しいとの 頼もしい相談相手でした。「死なない約束」をしたのもK先生です。精神科の固定イメージを良い意味で壊してくれた恩人です。
M男先生
復職中にお世話になりました。とても穏やかな態度で丁寧に話を聞いてくれました。再発症の折り、病休の休職の診断書を書いて下さった先生です。やはり 現場復帰は早かったかな・・・と親身に相談できた先生でした。障害手帳・自立支援医療申請も心よく承知してくれました。
現主治医M女先生
私が4月からお世話になっている 今天使か美女と錯覚??している先生です。懇切丁寧に話を聞いてくれます。「自分を大切にしてください」「いらぬ先の心配より今を大切に」が口癖です。
障害共済年金・障害基礎年金の診断書を書いてくれた先生です。
今でも 出来る範囲での協力は惜しみませんと言ってくれる 良き相談相手です。
<患者相談室>
障害年金などの相談を心良く定期的にしてくれました。年々、年金審査が厳しく 寝たきりの人でも3級認定の人や認定外になる人が多いです、と楽観論をいさめた上で、自己申立書の記述に助言を多く頂きました。2級認定でしたと報告したら「良かった」と一緒に喜んでくれました。
他の多くの病院スタッフも親身になってくれて いい病院に当たったと感謝しています。
私の大切な人B

大学時代のパイオニア下請けのライン班長さん。
今では恩人なのにその人の名も顔も思い出せませんが 言行が強く心に残っています。
バイト先では パイオニアのオーディオ用アンプ製造をしていたのですが、ある日 出来上がった製品を検査にまわす時 かごの重さに負け落としそうになった時、身体で製品を支え用として失敗した時、
ライン班長が「馬鹿野郎!!、もっと自分の身体を大切にしろ!!」と大きな声で叱ってくれたのです。
「製品は作り治せばいいが、ケガをしたらどうするんだ」との意味だと言ってくれたのです。ラインそのものに1日のノルマがあるのに、皆心良く再製造をしてくれ、その日は ノルマギリギリ達成でした。
今まで「物を大切に」と育ってきた私にとって、「物より人間が大切だ」と教えられた瞬間でした。この班長さんの躊躇なく出た「身体を大事にしろ!!との言葉。
その後の教員生活で「咄嗟の場面」で その考え通りに一人ひとりを大切にしようと 教員生活の指針になった人です。
2008年10月29日
私の大切な人C
2008年10月31日
私の大切な人D
出会いは、心理カウンセラーの増田泰治さんの「うつ病の家族・友人との接し方」というブログにたどりついたことです。
何を勘違いしたのか「うつ病の」の「の」を「患者の」と読み違えてマニュアルを申し込み読み始めました。
実はうつ病をもつ家族患者に対する「家族の対応マニュアル」だったのですが、患者の視点で読み直してもとっても参考になるものでした。
そのマニュアルの申し込み者でつくる「うつ病自助の会」でたくさんの方と知り合いになり 家族の思いや患者の立場での思いを交流できているのが 今の私の支えになっています。状況がそれぞれ違っていても「仲間」がいることが いかに生きる支えになるかを実感しています。
もし興味のある方は
増田泰治さんブログ「うつ病の家族・友人との接し方」
http://depressionfamily.blog118.fc2.com/
をごらんください。メンバーのみんなが私にとって大切な人々です。
2008年11月25日
私の大切な人 E
この方達の友情・支援がなければ ここまで続いたどうか・・
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今日は【うつ病家族の自助グループメンバー】
自助グループについては、リンクしている増田泰治カウンセラーの「うつ病の家族・友人との接しかた」に詳しいです。
では紹介です。
○ロッキーさん・・小だぬきのブログのスタート前半にコメントをいただき励まされました。最近 コメントもmixiの更新もないのでちょっと心配しています。真面目に教会・修道院礼拝にいくキリスト教信者の夫婦仲抜群の奥さん。私に「小さな幸せ」に気付かせてくれた人
○maniiさん・・1番多くコメントしてくれる人。医学部の娘さんをサポートしながら ご夫婦で24時間待機の仕事を持つ多忙さの中、私に温かい励ましと気遣いをしてくれるのが 嬉しいです。ステキで前向きな奥様です。
○だったいさん・・運命の不思議?で彼女の仕事は、私が面説でトンでもない発言をし受験失敗した大学校の後輩?? 彼女がサポートする彼氏も◇◇学校・大学校という私の第一希望校の後輩??の縁。海関係の仕事。今は大学院在席。私より状態が悪かった彼氏をもうすぐ職場復帰できるまで真摯にサポートした努力の人です。ちょっとナイーブすぎるほど彼の回復のために悩やんだ大和撫子。
○veddelevさん・・今はドイツ在住で大家さんの彼氏について忙しい研究と同じくらいサポートするお母さん。英国・ドイツ等からのオファーもくる研究者。異国で言葉が通じない苦労や生活、綺麗なヨーロッパの写真は「JAMさんのつれづれ日記」でリンクしてありますのでリンク欄よりご覧ください。
○及川宏子さん・・高校の娘さんのサポートをしつつ親娘でカラオケやゲームを楽しめるステキなお母さん。娘さんの状態にどれほどの苦労があっても挫けなかった道産子。mixiに参加していて記事に添付された 及川さんの描くイラストも心の癒しになっています。
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このグループには「患者の立場」で参加しているのですが・・・。ご家族の心配や悩みに触れ、ふと私の両親も口には出さないけれど悩んでいるんだろうな・・・、と思う気持ちが やっと??出てきた小だぬきです
2009年01月16日
私の大切な人F
初任1年目は、1年1組担任。当時は殆どの学年が7クラスという大規模校。法学部を出てから1年間の明星大学の通信教育で2種免許を取った「ヨチヨチ歩き」、しかも教育実習を無理矢理 元担任のM先生が教頭をしている学校に2月中旬より3月中旬までお願いし 駆け込み免許申請をしたばかりで4月から1年生担任。
当時は、恐いもの知らずで「1年目の教員として1並びも縁起がいい」などと無鉄砲だったのですが、今考えると「なんと大胆な人事なのだろう」と思います。
職員会議・朝の朝礼の司会が 1年生から・・・、ということは私がトップ。学年7名の名前さえ覚えていないのに50名以上の職員の名前など覚えられるハズはありません。それを助けてくれたのがH先生。小声で「◇先生」などと教えてくれました。当時は 頼れる姉さんと思っていたH先生が 後に年下と知り愕然?とした覚えがあります。昨夏に「学年同窓会」の音頭をとってくれたのもHさんでした。
この学年は「何も知らないやんちゃ坊主の私」を家族のように扱ってくれました。姉御のHさん・Kさん・Gさんや恐い母親役のH"先生、ケンカ相手のNさん、なぜか相談役に私がなったIさんなど 今の現場では考えられないほどの人間関係で助けられました。
当時から「人畜無害」「安心」と男として見られず、歓送迎会などで酔いがまわった◇さんを 駅近くの私のアパートに休息させても「安心してベ゛ットに横になり眠ったり」、学年旅行なども7人相部屋で平気などという関係でした。今考えると20代男性としては考えられない「擬似家族」の心境だったのでしょうね。
この関係が なんとです「1年生・2年生・3年生」そして次の「1年生・2年生・3年生」の6年間基本的に続くのですから、私の教員生活の土台を築いてくれた仲間達です。
当時、組合の青年部や書記局、執行委員をしていたのですが、彼女らの支え無しには到底できなかったことと思います。
母親役のH"先生の旦那様が 事務所の採用担当で私の「成績・面接」なども担当されたとのことも後日知りました。冷や汗です。
採用試験で知り合いになった男子4名で試験結果などを話している時、女子受験者から「あ〜ぁ、やっぱりひっかけ問題に見事にひっかかっているわ」などと 解説され、筆記試験に暗雲が立ちこめ、面接でも当時の一張羅であったチェックの背広に赤ワイシャツなどというとんでもない服装の上 今の教育に望むことはなんですか?の質問に「夜間中学の認可が是非必要です」とか当県に赴任できますか?の質問に
「現在住んでいるK市の内定も貰っています。3月中に採用が決まればK市で働きたいです」などと平然と答えたのに採用決定通知が電話であり、「現時点K市からは何もいってきません。よろしくお願いします」と答え、明日 赴任校の校長面接にこれますか?で「ハイの即答。」
今考えても、採用倍率が20倍以上あった当時、キツネにだまされている(今流では 振り込め詐欺?)心境でT市教育委員会へ。本当に面接室に通され「交換人事もあることだから、T市のために5年は最低働いてもらえますか?(他県交換人事は、翌年廃止)」に「お願いします」と答えた上、「これから面接して頂く◇校長には、住居の手配もさせています。お知り合いがいないようでしたら その住居でよろしいですか?」と言われ「ありがとうございます」が精一杯の答え。その後の校長面接は「今から大家と住居の案内をするから 私の自転車の後に乗りなさい」と案内された上、学校に行き 学校要覧や沿革史をもらい帰宅。今の受験生には「本当に??」などと言われそうですが、後日裏話を聞くと「型破りなイキのいい男子が現場の希望だった」と言われ、妙に納得したものです。
今だったら 間違いなく採用不可だったでしょう。
人世って、人との出会いや場で救われる時があるのだなぁと思った瞬間でした。
その私がいま 精神障害2級の「うつ患者で休職」というのも 考えれば「破天荒な新卒から初任者指導教員になったあたりから・・・」というのも 面白いのかオカシイのか・・・・・。
最後にその学校で5年生担任になった時のメンバーも「私の大切な人」。後日、報告をしたいと思います。
2013年06月11日
反骨「老人党」貫徹 なだいなださん死去 作家、精神科医
2013年6月10日 東京新聞夕刊
「パパのおくりもの」や「老人党宣言」などユーモアと風刺に富んだ著作で知られる作家で精神科医のなだいなだ(本名・堀内秀(ほりうちしげる))さんが六日死去していたことが分かった。八十三歳。東京都出身。自宅は神奈川県鎌倉市。
一九五三年に慶応大医学部を卒業。
医師として病院に勤める傍ら、幅広い文筆活動を展開した。
ペンネームは、スペイン語で「何もないと、何もない」を意味する。
同人誌「文芸首都」に参加。「海」や「トンネル」などで計六回芥川賞候補となったが受賞は逃す。
六五年のエッセー「パパのおくりもの」で注目された。
独自の平和論を展開した「権威と権力」、医師としてアルコール依存症の問題を扱った「アルコール中毒−社会的人間としての病気」など、多くの著書を残した。
二〇〇三年、インターネット上の仮想政党「老人党」を結成。
「老人はばかにされている。政治へ怒りを率直にぶつけ、選挙を面白くしよう」と呼び掛け、話題を集めた。
党結成の精神を著作「老人党宣言」に記した。
エッセー「娘の学校」で婦人公論読者賞、評論「お医者さん」で毎日出版文化賞。明治学院大教授を務めた。
他の作品に「人間、この非人間的なもの」など。
雑誌「中央公論」六月号に「人生の終楽章だからこそ“逃げずに”生きたい」と題する文章を掲載し、膵臓(すいぞう)がんであることを告白していた。
自身のブログは六日未明まで更新を続けた。
◆ユーモアで世直し 旗振り
<評伝> 「怒れる老人」は、亡くなる直前まで誰からも束縛されず、病に屈することもなく、ただ自分が自分であることを主張し続けた。
現代社会に向ける鋭い視線は、古今東西の哲学や歴史に裏打ちされ、本質を見抜いた。
自由と理性を体現した言論人だった。
十年前、神奈川県鎌倉市の自宅で初めて会った。
小泉政権が米国のイラク戦争を支援し、市場経済主義で弱肉強食、格差拡大政策を進めていたころだ。
「老人や弱者いじめの政治にもう我慢ならん」と、インターネット上でバーチャル(仮想)政党の「老人党」を立ち上げた。
自民党政権を許した責任は老人にある。
政権交代で官僚支配、米国依存を打破する。
失うものが何もない老人が世直しの声を上げようと、旗を振ったのだ。本紙は特報面で「世直し!老人党」を連載した。
「本当に困っている人を助けるのが政治」と言い切った。
政権交代は六年がかりで実現したが、民主党政権のばらまき政策を「政治哲学がない」と批判。
政権交代がふつうになれば「投票する老人や弱者の声を政治家は無視できなくなる」と言い続けた。
原発脱却や環境保護、護憲活動でも気を吐いた。株優先のアベノミクスを欺瞞(ぎまん)と喝破し、与野党に「強い国ではなく、賢い国にしよう」と注文した。
一九六五年の著書第一作「パパのおくりもの」は、自身の子供に語りかけるエッセーの手法をとりながら、文明や社会を批評。
政治家への苦言はいまでも永田町に通用する内容だ。
軽妙でエスプリに満ちた文章はその後の評論、小説、エッセーなど幅広い著作に一貫していた。
ラジオの「全国こども電話相談室」の相談員も務めた。
思想を優しい言葉で伝える独自路線を切り開いた。
精神科医を現役引退した後も、社会問題に正面から向き合い、執筆活動のかたわら市民団体の招きであちこちを講演して回った。
なださんを追い続けるうち、怒りの裏側に深い人間愛と失敗を許す寛容さ、違いを認める包容力を感じ、うつになりがちな心がいやされた。
二〇一一年に前立腺がんを発症。手術不可能と告知された後も、ブログで「痛みを和らげながら知的活動を維持していく」と宣言。
亡くなった六日も家族や世直しへの思いをつづっていた。
とりあえず主義を標ぼうし、「完璧を求めず、とにかくやってみて、ダメなら直せばいいさ」が口癖だった。 (立尾良二)
2013年06月12日
医師と作家の複眼思考で得られた視点
2013年6月12日 東京新聞「筆洗」
「酒も飲めない医者に、酒飲みの気持ちが分かるか?」。
下戸だったなだいなださんは、精神科医としてアルコール依存症の治療にかかわった時、患者からよく言われたそうだ
▼当然、酒飲みの気持ちは分からない。
その体験から、災害で被災した人のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を専門家が治療したり、支えたりできるとは思わなかった
▼遠くから来た専門家が、家族や友人を失った人たちにせめて言えることは、これから災害に遭う人のために役に立つかもしれないから勉強させてください、ということだと東日本大震災後の講演で語っていた。
医師と作家の複眼思考で得られた視点だろう
▼政治や社会への異議申し立てをユーモアを交えて分かりやすく伝えてきたなださんが亡くなった
▼小泉政権下、インターネット上の仮想政党「老人党」を結成、世直しの声を上げたことは記憶に新しい。
憲法や平和に関する発言には説得力があった。
靖国問題で語っていた言葉が今も強く印象に残っている
▼「神様は人間を超えたものとして信じられるから、意味があるのです。
ところが、靖国では神様の資格を、国が決めるのです。国がつくった宗教です。
それを、国が信仰の自由のもとにあるという宗教として承認する。
これが常識となって矛盾を感じないでしょうか」。
また一人、リベラルな言論人が世を去った。