高齢者が悪い、若者が悪い…「自己責任論」で疲弊して誰も責任を取らなくなった日本社会の現実
3/8(土) 現代ビジネス
わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。
ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。
※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
経営とは、誰のものか。はたして、企業や社長のものなのだろうか。
〈経営を「企業のお金儲け」と同一視する「二重の間違い」も蔓延している。
経営するのは企業だけだと思い込むのは無知と傲慢のなせる業だ。
学校経営、病院経営、家庭経営……はどこに消えたのか。
むしろ世の中に経営が不足していることこそが問題なのである。
現代の学校や病院や家庭が不合理の塊なのは誰もが知っていることではないか。
また人類のさまざまな側面に関わる広義の経営において、利益・利潤や個人の効用増大が究極の目的になりえないのも明らかだ。
比較的それらを重視する企業経営においてさえ、本来それらは二次的な目的にしかなりえない。〉(『世界は経営でできている』より)
『世界は経営でできている』で気鋭の経営学者は、経営を「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だという。
そして、そのような経営はすっかりみられなくなった。
〈世界から経営が失われている。
本来の経営は失われ、その代わりに、他者を出し抜き、騙し、利用し、搾取する、刹那的で、利己主義の、俗悪な何かが世に蔓延っている。
本来の経営の地位を奪ったそれは恐るべき感染力で世間に広まった。
プラトンの時代からドラッカーの登場まで、人類史における本来の経営は「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だったはずだ。〉(『世界は経営でできている』より)
〈しかし現代では、経営ときいて「価値創造を通じて対立を解消しながら人間の共同体を作り上げる知恵と実践」を思い浮かべる人は少数派になった。
人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。〉(『世界は経営でできている』より)
経営概念、世界の見方・考え方を変えない限り、人生に不条理と不合理がもたらされ続けているのだ。
「価値は有限でしかありえない」のか?
〈日本には「価値は有限でしかありえない」という誤った観念が普及した。
(中略)
価値は有限だとする思い込みが流行するとともに、「価値を誰かから上手に奪い取る技術」を売り歩く人々が跋扈した。
いかにして価値を掠め取ったかを自慢するだけの書物が街に溢れた。
多くの人は経営の概念を誤解し経営を敵視するようになった。
そうするうちに本来の経営の概念は狡知の概念と入れ替わってしまった。
もし価値が一定で有限ならば、誰かが価値あるものを得ているのは別の誰かから奪っている以外にありえない。
善人に対しても「我々に気づかせないほど巧妙に、我々の価値を奪っているのでは」という疑念がよぎることになる。
こうした誤った推論により、日本の現状を誰かのせいにする言説が流行した。
若者が悪い、高齢者が悪い、男性が悪い、女性が悪い、労働者が悪い、資本家が悪い、政治家が悪い、国民が悪い……。
現代では誰もが対立を煽る言葉に右往左往している。
自己責任論という名の、責任回避の詐術に全ての人が疲弊させられてきた。
誰もが別の誰かのせいにし、自ら責任を取る人はどこにもいないかのようだ。〉(『世界は経営でできている』より)
価値を有限だと思い、何かを誰かと奪い合うのは、個人と社会にとって大きな損失である。
そのことを理解して、初めて日本や世界が豊かになる方法を考えることができるのかもしれない。
現代新書編集部