2025年03月09日

高齢者が悪い、若者が悪い…「自己責任論」で疲弊して誰も責任を取らなくなった日本社会の現実

高齢者が悪い、若者が悪い…「自己責任論」で疲弊して誰も責任を取らなくなった日本社会の現実
3/8(土) 現代ビジネス

わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。
ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。

※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。

経営とは、誰のものか。はたして、企業や社長のものなのだろうか。

〈経営を「企業のお金儲け」と同一視する「二重の間違い」も蔓延している。

経営するのは企業だけだと思い込むのは無知と傲慢のなせる業だ。
学校経営、病院経営、家庭経営……はどこに消えたのか。
むしろ世の中に経営が不足していることこそが問題なのである。
現代の学校や病院や家庭が不合理の塊なのは誰もが知っていることではないか。

また人類のさまざまな側面に関わる広義の経営において、利益・利潤や個人の効用増大が究極の目的になりえないのも明らかだ。
比較的それらを重視する企業経営においてさえ、本来それらは二次的な目的にしかなりえない。〉(『世界は経営でできている』より)

『世界は経営でできている』で気鋭の経営学者は、経営を「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だという。

そして、そのような経営はすっかりみられなくなった。

〈世界から経営が失われている。

本来の経営は失われ、その代わりに、他者を出し抜き、騙し、利用し、搾取する、刹那的で、利己主義の、俗悪な何かが世に蔓延っている。
本来の経営の地位を奪ったそれは恐るべき感染力で世間に広まった。

プラトンの時代からドラッカーの登場まで、人類史における本来の経営は「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げるさまざまな対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」だったはずだ。〉(『世界は経営でできている』より)

〈しかし現代では、経営ときいて「価値創造を通じて対立を解消しながら人間の共同体を作り上げる知恵と実践」を思い浮かべる人は少数派になった。

人生のさまざまな場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害……など数多くの陥穽をもたらす。〉(『世界は経営でできている』より)

経営概念、世界の見方・考え方を変えない限り、人生に不条理と不合理がもたらされ続けているのだ。

「価値は有限でしかありえない」のか?

〈日本には「価値は有限でしかありえない」という誤った観念が普及した。
(中略)
価値は有限だとする思い込みが流行するとともに、「価値を誰かから上手に奪い取る技術」を売り歩く人々が跋扈した。
いかにして価値を掠め取ったかを自慢するだけの書物が街に溢れた。
多くの人は経営の概念を誤解し経営を敵視するようになった。
そうするうちに本来の経営の概念は狡知の概念と入れ替わってしまった。

もし価値が一定で有限ならば、誰かが価値あるものを得ているのは別の誰かから奪っている以外にありえない。
善人に対しても「我々に気づかせないほど巧妙に、我々の価値を奪っているのでは」という疑念がよぎることになる。

こうした誤った推論により、日本の現状を誰かのせいにする言説が流行した。
若者が悪い、高齢者が悪い、男性が悪い、女性が悪い、労働者が悪い、資本家が悪い、政治家が悪い、国民が悪い……。

現代では誰もが対立を煽る言葉に右往左往している。
自己責任論という名の、責任回避の詐術に全ての人が疲弊させられてきた。
誰もが別の誰かのせいにし、自ら責任を取る人はどこにもいないかのようだ。〉(『世界は経営でできている』より)

価値を有限だと思い、何かを誰かと奪い合うのは、個人と社会にとって大きな損失である。

そのことを理解して、初めて日本や世界が豊かになる方法を考えることができるのかもしれない。

現代新書編集部
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月08日

山本太郎議員「鬼畜の所業」「派遣要請を握り潰した」「解散総選挙を優先させた」能登への自衛隊派遣めぐり“怒りの追及”

山本太郎議員「鬼畜の所業」「派遣要請を握り潰した」「解散総選挙を優先させた」能登への自衛隊派遣めぐり“怒りの追及”
3/6(木) ABEMA TIMES

 6日、参議院予算委員会にて、れいわ新選組の山本太郎議員が能登半島への自衛隊派遣について追及した。

 山本議員は2024年9月に石川県能登地方において発生した記録的大雨による土砂災害を受け、11月に馳知事が自衛隊の災害派遣要請を求めたが、防衛省から緊急性・公共性・非代替性という自衛隊災害派遣の3要件を満たさないと回答された経緯を説明。

 そして「とてつもない土砂量、その撤去の多くを事実上ボランティアに丸投げすることになった。
その後、12月6日、16日、本委員会で私が総理に自衛隊派遣の検討をお願いしても『石川県から派遣要請を受けていない』の一点張り。
総理は検討することさえ拒んだ。
馳知事の大きな間違いは、被災自治体としてさっさと正式に要請すればよかったものを、災害派遣の決定権限もない自民党の重鎮たちに水面下でお伺いを立て続けたことだ」と述べ、被災自治体からの自衛隊派遣の要請を過去に断った事例が直近10年にはないことを確認した。

 その上で「政府は正式に派遣要請をされる前に知事に派遣要請を諦めさせた、握り潰したとも言える。
『そうじゃない』と言うのであれば、そもそも派遣要請も出されていないのに、一体何の権限で、防衛省幹部は『3要件に当てはまらない、まだ満たしていない』と評価して、それを大臣に伝えたのか?」として防衛省幹部の参考人招致を求めた。

 さらに「本来、県民の命を預かる知事は、こんな水面下でのお伺いなしに直接自衛隊の派遣要請をする権利あるはずだ。
自衛隊派遣が必要なほどの災害なのに、解散総選挙を優先させた、その批判をかわすために、派遣要請が出されぬよう水面下で画策することはあまりにも不適切、鬼畜の所業だ。
被災地の復旧復興を、永田町と霞ヶ関で、邪魔しないでいただきたい」と述べ、石破総理に「お弁当を届けたり、重機で泥のかき出しをしているのは災害NPOだ。
総理、もう一度知事とお話し合いいただけないか。本当に大丈夫なのかということを確認いただけないでしょうか」と要請した。

 石破総理は「私どもは鬼畜の所業をしたつもりは全くない。
今(山本)委員が言ったように、実態を常に把握するのは大事なことだ。
この国会の場で山本委員からこのような指摘を受けたので、私自身、しばしば馳知事とは連絡を取っているが、実情がどうなっているかというのを把握させてもらう」と回答。

 山本議員は「ただし、知事ははっきり言って現場を知らない。現場を見ていただきたい、総理にも。岩手の山火事にも視察に行っていただきたいし、そして能登にももう一度入っていただきたい。よろしくお願いします」と述べた。

(ABEMA NEWS)
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月07日

SNSを規制したところで「魔女狩り」がなくならない根本的な理由(古市憲寿)

SNSを規制したところで「魔女狩り」がなくならない根本的な理由(古市憲寿)
3/6(木) デイリー新潮

 世論が荒れている。誰かが炎上したかと思ったら、すぐに別のターゲットに火がつく。もはや「人のうわさも75時間」という時代だ。

 この世情において、改めて注目されているのがSNSである。
2024年の東京都知事選や兵庫県知事選でもSNSは選挙に大きな影響を与えたといわれている。
自民党には選挙におけるSNS規制に前のめりの議員がいる。
本当に自民党がSNS規制でもしようものなら、まさにSNS世論にまきをくべるようなもので、センスがないと思う。
「選挙に負けそうになったから新しいメディアを弾圧する既得権益集団」との烙印が押され、そのイメージを変えるのは難しいだろう。

 確かにSNSに差別やデマが溢れているのは事実だ。だが本当にそれはSNS特有の問題なのだろうか。
SNSでの誹謗中傷は「現代の魔女狩り」と呼ばれたりするが、本当の魔女狩りも、実は新しいテクノロジーの到来とともに起こった。本である。

 15世紀半ば、グーテンベルクが活版印刷を実用化したことで、本というメディアが安価で手に入るようになった。
聖書が大量に刷られ、教会が独占していたキリスト教の解釈にも疑問が呈され、それがやがて宗教改革につながった、というのは有名な話だ。

 だが本の普及には負の側面もあった。
それを象徴するのが1468年に出版された『魔女に与える鉄槌』という一冊だ。
作者のハインリヒ・クラーマーはドミニコ会の修道士。陰謀論に傾倒したヤバい人物で、サタンに率いられた魔女が世界を破壊しようとしている、と信じていた。
だが地元の教会当局はまともで、クラーマーの告発を信じず、むしろ彼に教区を離れるよう命じた。

 そこでクラーマーが書き始めたのが『魔女に与える鉄槌』だ。[
妄想と憎悪に満ちた一冊は、ヨーロッパでは記録的なベストセラーになった。
当初は聖職者も懐疑的だったが、あまりにも本が売れてしまったことで教会も態度を変えていく。
同書は増刷や翻訳が繰り返され、大量の模倣書も生み出した。
魔女狩りの原因を一冊の本だけに求めることはできないが、印刷技術が魔女狩りを過熱させ、ヨーロッパ中に広めたのは事実だろう(ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS』)。

 魔女狩りは「暗黒の中世」ではなく、近世に起きた惨劇である。
中世の迷信深い人ではなく、新しい技術が陰謀論を流布し、犠牲者を増やした。
その意味で現代のQアノンに通じる点もある。
SNS規制というなら、本などのオールドメディアも規制すべきだろう。そうでないとフェアではない。結局、人類は技術が発達しようと同じようなことを繰り返してきたのだ。

 だが希望もある。魔女狩りによる死者は少なくとも数万人といわれる。
SNSの誹謗中傷が人を殺すことはあるが、かつての魔女狩りと比べれば死者数ははるかに少ない。その意味で人類は着実に進歩している。これでも多少は平和で理性的になったのだ。


古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

「週刊新潮」2025年3月6日号 掲載
posted by 小だぬき at 00:00 | 神奈川 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする