「原発事故」という
現実を突きつけられる辛さ
2014年1月17日 読売新聞yomiDr.
(心の傷がどこまで修復されたかは、見えないものです)
阪神淡路大震災で被災された方々の生活が、現在どこまで修復されたかについて勉強させていただく機会がありました。
東日本大震災の復興支援活動をしている人もいらしたのですが、心の傷というテーマのところで意外なことを言われました。
「福島県の場合は、阪神淡路の時と何も同じではないと思われた方がいい」
原発が存在したこと、その恩恵をこれまで被っていただろうという目で社会から見られるという現実を突きつけられた人たちの心の傷が、時間で癒やされたかどうかなんて外から見えるものではありません。
「突きつけられた現実を受け入れる」
心理学の分野ではこの言葉をよく使いますが、福島県の原子力発電所の事故は津波で起きました。
たとえそれが人災だったとしても、何か別な原因であったとしても、突きつけられた現実に違いはありません。
原因で人生を諦められるものではないのです。
突きつけられた現実を受け入れ、その先がどうなるかなんて本人にも分からないものです。
社会や他人がどう対応してくれても、自分自身がどうなるか、それが分からない。
たとえ人生は自分で切り開いていくものだと仮定しても「時間が経(た)てば心構えも元に戻ったでしょう」という考え方は、間違っている。
過去の辛い現実を受け入れたことから、立ち直られた人とできなかった人の差は、時間という平等に与えられた素材をどう使ったかによって大きな差を生み出す。
そこまでは分かったとしても、では個人がどうすればよかったのか、なぜそれができなかったのかまでは分からないのだと説明されました。
立ち直るキッカケがつかめた人とつかめなかった人。
生活態度の違いという点だけでそれが後になって見えてくる。
見えるということはそれだけなのです。
はっとしました。
仮設住宅から自立して生活を始められた人、
借り上げ住宅と呼ばれる場所で最初から独りで生活をしていらした方、
一家がバラバラになった人、
狭い所に一緒に暮らしている家族、
私たちは生活の状況だけを観察して、人々の気持ちを整理しようとしていました。
そうしないと私たちの頭の中や気持ちが整わないからそうしてきただけで、そんな調査は実施できても、人生設計については誰も責任をとっていません。
自分の手の中に自分の人生がないような、そんな気持ちで今日も生かされていると思っている人もいる。
勉強会の翌日、私は福島県に向かう新幹線の中で頭をかかえてしまいました。
寒いからとジッと家の中に居て、昼間からお酒を飲み、寝ころんでいるか食べているか、あとはパチンコしか興味を示さない被災された高齢男性をどうすればいいか、そうした方々の持病のケアをどうすればいいかなどを保健的視野から考えるプロジェクトの相談が今回の目的です。
でも実際は予算獲得の確認に行くのではないか?とか思ってしまい、こんなに頭の中が迷っていてどうするのだろうかと悩みながら郡山駅に着きました。
地元の保健師さんが車で迎えに来てくださっていて、向こうから手を振っている。
それに応えながら、凍てつくような寒さの体験も4年目なのかと思いました。時間というものがいかに曖昧(あいまい)、そして味方につけることが難しいものかも手を振りながら味わっていました。

