目の前にあるリンゴは、脳がつくり出した映像にすぎない。この世のすべてのものは、存在しているままに見られないという認知の不条理
チェ・ソンホ : 作家
2025/07/12 東洋経済オンライン
人間の「見る」という行為を分析していくと、不思議なことが明らかになる。
目の前に何かしらの物体があるとすると、ほとんどの人はその物体を自分が見ていようが見ていまいがそこに存在すると考えているが、実は違うというのだ。
韓国でミリオンセラーとなった教養書『全人類の教養大全2』著者のチェ・ソンホ氏によると、世界を理解する手がかかりとして重要な議論があるという。
それはかの有名な哲学者イマヌエル・カントが提唱した「観念論」だ。
カントによると、目の前に広がる感覚的な外部世界は、実際には、自分の内面世界によってつくり上げられた“何か”だという。
あなたの目の前にあるものは、本当は何なのだろうか。
その物体は「そこに見たままに存在する」と言えるだろうか……。
見えないはずのものを見たつもりでいる
138億年を疾走する圧倒的にわかりやすくてドラマチックな 全人類の教養大全2
あなたが手にリンゴを持っているとする。リンゴはどこにあるだろう?
「何を言っているんだ」と思うかもしれない。
当然、リンゴはあなたの目の前にある。
ところが、目で見るということについて細かく考えてみると、おかしいと思わないかな?
僕たちが目で見るというのは、光源から放たれた光の粒子がリンゴの表面にぶつかったあとに、はね返って僕たちの水晶体を通過して、網膜を刺激することをいう。
光の粒子が目の網膜を刺激したら、網膜の視細胞は光を電気信号に変化させて、視神経を通って脳に情報を送る。
光の粒を脳に直接送るのではなくて、0と1からなるデジタル信号をモールス信号のようにして脳に知らせるのだ。
このような過程をへて、電気信号が僕たちの脳まで伝わる。
リンゴが本当はどういうカタチなのか知らない
脳の立場で考えてみよう。脳は目も耳もないのに、電気信号があちこちから流れるように入ってくる。
脳はその情報を解析し、やっと電気信号をリンゴのイメージとして僕たちに見せてくれる。
目の前にあるっぽいリンゴは、実際には自分の脳がつくりあげた映像なのだ。
ちがう過程をもう1つ見てみよう。
もしもコウモリが、皆さんが手に持っているリンゴを見たら、どう思うかな?
種ごとに差はあるものの、僕たちが知っている一般的なコウモリは目が退化していて、事物を超音波によって聞き分けている。音波を放って返ってきたものを耳で聞いて世界を把握する。
コウモリは、世界をはっきりと「見て」いるように行動する。
推測ではあるけれど、たぶんコウモリはカラフルな世界を見ているだろう。“目がなくても”だ。
コウモリがリンゴを認知する過程を想像してみよう。
リンゴの表面にぶつかったあと、はね返ってきた超音波はコウモリの耳に届く。
すると、鼓膜がふるえて聴覚細胞が刺激される。
そこから発生した電気信号が、コウモリの小さな脳へ伝達される。
たぶんコウモリは耳で聞いているけれど、頭のなかではカラフルなイメージとして「見て」いる。
あなたが目で見たリンゴとコウモリが耳で聞いたリンゴのうち、実際のリンゴにより近いのはどちらだろう?
当然、人間である僕たちが見ているリンゴだろうか? コウモリはどう思うかわからないよね。
「人間という種族は目で何かを見るんだって? 信じられない。どうやって生きているんだ?」って言うかもしれない。
世界は現象と物じたいの2つに分かれる
ここで最初の質問に戻ってみよう。
あなたの手の上に置かれたリンゴはどこにある? それから、手の上は、目の前の世界はどこにある? かしこい人の答えはこうだ。
「リンゴと世界は自分の頭のなかにある。僕は自分の頭のなかのイメージを見ている」
「見る」とは、外部の事物じたいを見るのではなく、自分の頭のなかで解析したなにかを見ることである。
イマヌエル・カントは世界を2つに分離した。
自分の目の前にあらわれている世界を「現象」と言い、現象の向こう側の本当の世界を「物じたい」と言った。
カントによると、結局、僕たちが知ることができるのは現象だけで、事物の実体じたいを認識するのは絶対にできないのだそうだ。
僕たちが見ているのは頭のなかで再構成されたイメージとしてのリンゴだけで、僕たちの外部に存在する実際のリンゴには決して届かない。
ここまで聞いたら、僕たちは外部の世界をあきらめて、自分の観念のなかに閉じこもっているようだ。
僕たちはお互いに、ちがうそれぞれの現象世界に埋もれた主観的な存在。
コウモリと僕たちがまったくちがう世界を見ているのと同じように……。
チェ・ソンホ 作家

