日系米国人が名誉回復できたのは「日本人らしさ」を失ったから 戦後80年 歴史の皮肉から学ぶ教訓
猪瀬聖 ジャーナリスト
8/13(水) Yahoo
戦後80年の今年は、過去を振り返り過去から学ぶ様々なイベントが企画・開催されている。
その中に日系米国人の苦難の歴史を振り返るものがあり、メディアでも特集が組まれている。
ここでは、日系米国人が強制収容によって失った名誉や自尊心を戦後どうやって回復したか、あまり報じられていない「日本人らしさ」に焦点を当てて振り返り、そこから何を学べるのか考えてみたい。
筆者は1990年代半ば、ニューヨークにあるコロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)に留学したが、その時の修士論文のテーマが「日系米国人」だった。
数十人に及ぶ日系米国人にインタビューし、日系米国人社会が米政府から謝罪と補償を勝ち取る経緯を取材。
さらに、2004年から4年間、全国紙の記者としてロサンゼルスに駐在中、日系米国人の取材を断続的に行った。
語ることを拒んだ日系2世
太平洋戦争勃発直後の1942年、米政府は西海岸などに住んでいた日本生まれの日本人移民と、その子どもたちである米国生まれの日系米国人を「天皇に忠誠を誓う日系人が謀反を企てている」という根拠のない理由で、居住地から何百キロも離れた荒野に建てた収容所に強制収容した。
その数約12万人。7割は米国生まれの日系2世だった。
終戦と同時に解放されたが、反日感情が根強い中、日系米国人は声を潜める暮らしを余儀なくされた。
だが、しばらくすると、黒人らが差別の撤廃を求めて立ち上がった公民権運動に刺激され、強制収容という重大な人権侵害に対する謝罪と補償を求める運動が起こり始めた。
ところが、運動は当初、勢いを欠いた。
多くの日系米国人が強制収容の体験を語ることを拒んだからだ。
これに関してはどの資料にも記されているが、拒んだ理由については触れていない資料も多く、触れたとしても「辛い体験を語りたくない、思い出したくない」といった記述が目立った。
しかし筆者は、多くの日系米国人への取材を通じ、本当の理由は別のところにあるのではないかと考えた。
そして得た結論が「日本人らしさ」だった。
「日本人らしさ」とは
米国の人類学者ルース・ベネディクトは、1946年に著した『菊と刀』の中で、日本人の行動規範を、周囲から非難や嘲笑を受けることを恐れたり他人の視線を過度に気にしたりする「恥の文化」によって形成されていると指摘。
他人の視線よりも個人の道徳規範に基づいて行動する欧米人の「罪の文化」と対比した。
また、権力に従順で権力者に立てつくことをよしとしない「お上(かみ)意識」も、社会学者らによって指摘されてきた日本人の特性だ。
2022年の映画のアカデミー賞でメーキャップ・ヘアスタイリング賞を受賞したカズ・ヒロさんは、インタビューの中で、日本国籍を捨て米国人になった理由を、日本の文化が「too submissive」だからと答えた。submissiveは「従順」「服従的」という意味だ。
戦前の日本人移民(日系1世)は、そうした恥の文化やお上意識という日本人らしさを背負ったまま米国に移り住んだ。
彼らは、母国での貧しさから逃れるためにやむを得ず渡米したのであって、けっして日本を捨てた変わり者ではなく、むしろ日本人らしい日本人だった。
そのことは、家々に天皇の写真が飾られていたことからも推測できる。
1世が備えていた日本人らしさは、子供の2世にも引き継がれた。
2世は米国生まれで、家の外では英語を話すバイリンガルだったが、基本、両親とも1世で、かつ戦前の濃密な日系人社会の中で育ったため、多くは価値観や行動規範が日本人に非常に近かった。
米国人でありながら極めて日本人的な2世は、お上(米政府)によって収容所に入れられたことは「民族や一族の恥であり、他人に話すと笑い者にされるからけっして他言すべきではない」と考えた。
謝罪と損害賠償をお上に求めるなど、もってのほかだった。
だから、2世の多くは他人にはもちろん、自分たちの子供である3世にも強制収容所の話をしなかった。
ある3世は「子どものころ、夕食後に両親が2人でよくキャンプの話をしていたが、学校のサマーキャンプの思い出話だと、ずっと思っていた」と取材で語った。「キャンプ」とは強制収容所のことだ。
日本人らしさ失った3世
3世は学校の授業などで日系人の強制収容について知ることになる。
すると、「なぜ両親は何も悪いことをしていないのに、収容所に入れられ、しかも今もコソコソと暮らさなければならないのか。フェアじゃない」と思い始めた。
強制収容体験を恥と思った2世は、日本人的な価値観や行動規範を3世に積極的に伝えず、また、戦前のような濃密な日系社会も消滅していたため、普通の米社会で育った3世は、考え方が米国人になっていた。多くは日本語もほとんど話せなかった。
そうした3世が大人になり、彼らが中心となって日系人の名誉回復運動が始まった。最初は参加をためらっていた2世も、3世に説得され徐々に考えを変えていった。
日系人が自ら動いたことで、同じように差別された歴史を持ち、かつ大きな政治力を持つユダヤ系やアフリカ系の団体も協力の手を差し伸べて、運動は一気に加速した。
クライマックスが、1981年7月から12月にかけ首都ワシントンやロサンゼルス、シアトルなど全米各地で開かれた公聴会だった。
学者や一般市民を含む延べ約750人が証言に立ち、多くの2世が、沈黙を破り、顔と実名をさらし、収容所での体験を次々と語り出した。
その様子はメディアでも報じられ、米社会に大きなインパクトを与えた。
これが1988年の「市民の自由法」(日系米国人補償法)の成立と、レーガン大統領による公式謝罪につながった。
ニューヨークで取材した高齢の2世は「(米政府がした仕打ちを)今は許すことはできるが、忘れることはけっしてできない」と述べ、収容所体験を語ってくれた。
声を上げることのインパクト
長年、日米両国のジャーナリズムの世界に身を置いて感じることの一つに、事件や事故の被害者の声の上げ方の違いがある。
米国では被害者がよくしゃべる。
もちろん、しゃべりたくない被害者もいる。しかし、じつに多くの被害者が、いかに悲しいか、怒っているか、やるせないかをカメラの前で顔を出して堂々としゃべる。
肉親を失ったばかりの遺族がインタビューに応じることも珍しくない。
そうやって社会が被害者の悲しみや怒りを共有し、社会を変えるエネルギーに変換することで、米社会は変わってきたのかもしれない。そんな印象を率直に抱く。
日本も昔に比べれば、被害者やその遺族らが直接、声を上げるケースが増えた印象を受けるが、つい米国と比較してしまう。当然、顔や実名を公開することは危険を伴う。
特にネット社会の今は、被害者が逆に誹謗中傷を受けることも多い。被害者はそっとしておいてやるべきだという声もネット上で飛び交う。
もちろん、報じる側の責任もある。
自戒を込めて言うが日本のメディアは安易に匿名を許しがちだ。
米国では、まっとうなメディアは原則、実名で報道する。
内部告発者のような場合は匿名も多いが、その場合は匿名にした理由を必ず添える。
被害者の声をできるだけ生の形で伝えることがジャーナリズムの使命と考えているからだ。
米史に残る人権侵害事件の被害者である日系米国人が名誉と自尊心を回復できた最大の要因が日本人らしさの否定だったことは、歴史の皮肉だ。しかし、そこから学ぶことは多いはずだ。
(この記事は2020年2月23日「日系人強制収容への謝罪と日本の実名論争の意外な共通点とは」を加筆・再構成したものです)

