一生目が覚めないかもしれないのに、なぜ人は毎日安らかに眠れるのか?【哲学者が語る「信仰」の本質】
3/12(木) ダイヤモンド・オンライン
死ぬことと寝ることは何が違うのだろうか?
どちらも自分のあずかり知らないところで世界が動いてしまうことに変わりないはずなのに、人間は死だけを異様に恐れている。
タナトフォビア(死恐怖症)を抱える著者と哲学者の森岡正博(早稲田大学人間科学部教授)が、死の本質に迫る。
※本稿は、日本タナトフォビア協会代表の浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』(SBクリエイティブ)の一部を抜粋・編集したものです。
● 脱宗教化が進む社会ほど 死の恐怖に苦しむ人が多くなる
森岡正博(以下、森岡):
宗教に人が惹かれていく、かなり大きな原因が私はタナトフォビアだと思っているんです。
例えばキリスト教の信仰のある人としゃべっていると、やっぱり死後の復活というのが信仰の肝なんです。
復活とは、この世で死んでも魂は永遠という話で、それを保証してくれたのがイエスだった。
だから、神の子であるイエスがこの世に生まれ、罪を引き受けて死んでくれたということを信じることによって、イエスが処刑のあとに復活したのと同じように、我々も復活できる。そう信じられる。
それがキリスト教の中心にある考え方であり、信仰なんですよ。
それって要するに、死んで終わりたくないという強い気持ちが信仰の中心にあると思います。
──「私もずっとそう思っています。
死が怖いというよりも、死後に何もないということが怖い。
みんなそうなのだと、心の奥底で人間はみなそう感じているのだと」
死後が無だと困る、死んでもまたこの世界に復活したい。その希求の発露が信仰ではないのか。
森岡:
宗教を求める気持ちのかなりの部分は、やはり死の恐怖を何とかしたいということでしょう。
ですが、宗教の中に入っちゃうと、それより大事なことが出てきます。
それはやはり神や仏ですね。
神とか仏というものの偉大さや、真理が一番大事なことだから、それに比べると死が怖いなんていうのは大したことじゃない。
というわけで、歴史を見てみれば、タナトフォビアは、宗教をつくり上げ、維持してきた大きな原動力だったんですね。
ところが、ここ100〜200年の間に近代社会が世俗化して、相対的に宗教の力が弱まってきた。
その部分を何か別のものが引き受けてくれるかというと何もない。
そういう理由から、脱宗教化が進んでいる社会ほど、タナトフォビアで苦しんでいる人は多いと思います。
──死の恐怖は、単に死が怖いという話じゃない。この世界がどうして存在するのか、なぜ自分という存在が今ここに在るのか、その根本を問う問いだ。
何千年もかけてつくり上げた答えの1つが宗教である、という理解。
自分の思ってきたことの裏付けをしてもらっているようだ。
● 死の恐怖から逃れる装置が せっかくあるのになぜ使わない?
森岡:
宗教者とこういう話をすると言われるんです。「神や仏を信じる道があるのに、なぜそこに来ないのか」というふうにね。
「その道はいつも開いているから、いつでも入ってきてください」と。
──「森岡さんは、その道に入ったことがありますか」
森岡:
ないです。なぜかわからないけど、自分の場合、宗教を信仰できない。
超越者の存在を信じるということが、できないんです。
それは、初めから「はい、できません」じゃなくて、宗教的なものに引かれる気持ちはすごくあって、実は自分のことを宗教的な人間だと思っています。
友人は宗教を信じる人のほうが多いし、宗教的な世界とは縁がとてもたくさんある。手触りがよくわかる。
だから、そういう道に若い時から何度も行こうとはしたんだけど、大きな関門があった。
それはやはり信仰の道です。絶対者あるいは超越者への信仰が、どうしても自分のこととしてできない。
──信じたいのに心から信じることができない、その苦悩なのか哀しみなのかが垣間見える。
森岡:
私の場合は、死を解決してくれる神とか仏を最初から拒絶しているわけじゃなくて、求めているのに信仰というところではね返されてしまう。
宗教を求めているのに入れなかったというのが、私の内面のプロセスですね。
森岡:
だから、宗教なしで生と死の問題は考えないといけないというふうに、若い時になりました。
その道として哲学が自分の場合はあると思い、哲学の方法を採ってきたということです。
──同じ道だ、と思った。
超越者の存在を信じたくて何度も門前を通る。
そう、何度も門をくぐろうとするのだ。それなのに、なぜかどうしても、その門をくぐることができない。
心のどこかでその道はあると、その道に進みたいと、いつもいつも願っている。そして、その存在を感じるような気がするのだ。
でも、それがただの自分の願望なのか、本当のことなのか、私にはよくわからない。
● 死んで無になる恐怖と 自分が死んでも世界が続く恐怖
森岡:
だから私は哲学の道を進んでいるんですけど、ポイントは何かというと、自分の頭で考えて自分で納得したいという気持ちがすごく強い。
これは哲学的だと思います。
もちろんいろんな人の考えを借りたり、学んだりするんだけれども、その上で最終的には自分の頭でもう1回全部を組み立て直して考えて、最終的に自分の頭で納得して自分の生き方にしたいというふうに私は考えています。
これは、昔から哲学と呼ばれていることとほぼ同じだと思うんです。
──自分の頭で考えて納得したい。
哲学とは、世界とは何か、自分とは何かという根源的な問いを、自分の頭で深く思索する学問だ。
それはまさに、宗教なしに生と死の問題を探究し、自分の理性で再構築する作業である。
森岡:
私が哲学者になったのは、「私の死」に出会ったからです。
本当に不思議なんですけど、小学校の高学年の時に、突然「私が死んだらどうなるんだろう」という考えが何の予兆もなく天から降ってきた。
「何かきっかけがあったんですか?」とよく聞かれるんですが、全くなかった。
何にもなくて、突然私が死んだらどうなるんだろうと思った。
その時に、死んだら私が消えるんだろうと思ったんですね。
そうすると、私が消えたら宇宙はどうなるんだろうと。宇宙も一緒に消えるんじゃないかと思いましたね。
でも、これってちょっと意味がわからない。謎なんですよね。
私が死んで、宇宙も一緒に消えたら、家族とか友達とか学校とかも全部消えちゃうのだと考えると、そんなこと信じられないような気がする。
でも逆に私が死んだ時に、私だけが消えて、私の家族や建物とか学校とか世界とかが全部そのまま残って、私なしに勝手に動いていくとしたら、それはすごい恐怖だと感じました。
だから、その時の私の恐怖っていうのは、1つは私が死んで私が無になる恐怖と、もう1つは私のいない世界が続いていくっていうことの恐怖。
世界が私なしに動いていくってどういうことだろうって。それを小学生の時に考えました。
● 寝る時に怖くないのは、 目を覚ますと信じているから
──心当たりのある話に、私の背筋はひやりとする。
ただ、世界が私なしに動いていく恐怖というのは、私にはよくわからない。
森岡:
不思議なのは、眠っている間はそういう状態なんですよ。
寝ている間は、私と無関係に世界が勝手に動いていますから。
このことになぜ恐怖を感じないのかっていう問題は当然あります。
当然また目覚めるだろうというふうに信じることができているから、恐怖を感じないのかもしれません。
──「眠っている場合は、私とは関係なく世界が動いても、それは一時的なものだと思えるということですね」
森岡:
そうです。死も眠っている間と同じで、1000年後にまた目を覚ますということを信じていたら、そんなに怖くないかもしれません。
昨日だって、自分が寝た後にちゃんと目覚めることができると信じたから、寝る時に怖くならなかったじゃないですか。
ここに「信じる」というのが入ってきちゃうんです。
──「そうですね。寝る時に怖くないのは、目を覚ますと信じているから。
信じることで恐怖が和らぐというのは、宗教と似ているような気がしてきました」
森岡:
同じですよ。結局、宗教的なものが入ってきているんです。
朝になったら目覚めると信じているのに、なぜ神様は信じられないのかという謎があるわけですよ。
──「それは経験していないからじゃないでしょうか?」
森岡:
これまで朝になると目が覚めた経験をしているけど、次に目が覚めるかどうかは絶対にわからない。そうでしょう?
──「はい。それ自体は別個のもの、ゆえに未知です」
森岡:
未知ですよね。だから、未知なのに信じられているってことです。
私たちはやっぱり何か信仰しているんです。
宗教を信じていない人も、眠りから覚めるだろうって、根拠なく信じているんです。
これはすごく不思議なことで、もしそこで小さな信仰があるんだとしたら、そういう小さな信仰を広げていけば、宗教の信仰へと広がっていくかもしれない。
浦出美緒

