「セクハラ」は予算書に書いてはいけない?女性初の厚労事務次官が財務省から受けた“信じられない一言”【村木厚子×鎌田實】
7/10(金) ダイヤモンド・オンライン
「やったのか」と父に問われ、「やっていない」と答えると、返ってきたのは慰めでも励ましでもなかった――。
2009年の「郵便不正事件」で、当時厚生労働省の局長だった村木厚子氏は無実の罪で逮捕されるが、その後、無罪を勝ち取る。
障害者雇用や少子化対策、働く女性の支援など、日本社会の変化の最前線を歩み続け、のちに女性として2人目の事務次官に就任した。
その揺るがない強さは、どこから生まれたのか。
医師で作家の鎌田實氏が、村木氏へのインタビューを通して、その信念と人生観の源泉に迫る。
※本稿は、医師の鎌田 實『女の“変さ値”』(潮出版社)の一部を抜粋・編集したものです。
● 村木氏の価値観を形作った 教育熱心な父からの教え
村木さんが国家公務員になった背景には、教育熱心な父親の存在があった。
子どもの頃に父親から言われたことがいまも鮮明に記憶に残っているという。
「勉強を頑張っても褒めてあげない。なぜなら、勉強は自分のためにするものだからだ。
お手伝いをしたら褒めてあげる。父親はそう言うんです。
私が就職するときにも、同じようなことを言われましたね。
出世しても褒めてあげない。仕事もしっかりやった上で、家庭を築いたら褒めてあげる、と」
他者のために、社会のために生きる――家庭教育によって、その価値観は築かれたのだろう。
村木さんは父親が望むとおりに仕事でも結果を残し、立派な家庭を築いた。
その分、村木さんが逮捕されたときには、父親は相当なショックを受けたはずだ。+
「逮捕されて、一番何が嫌だったかというと、父親が悲しむだろうなと。
報道がいっぱい流れた頃に父親から電話があって、ひとことだけ“やったのか”って言われて。私が“やってない”と答えたら“だったら徹底的に闘え”と」
冤罪事件なんてないほうがいいに決まっているけれど、事件があったからこそ、娘が事務次官になったときの父親の喜びはひとしおだったのではないだろうか。
● 事務次官への昇進を 断れなかった理由
村木さんは、事務次官になることを事前に聞いていたという。
関係者が「大騒ぎになると思うから」と、発表の少し前に知らせてくれたのだそうだ。
喉元まで「無理です。お断りします」と出かけたそうだが、なんとかその言葉を飲み込んだ。
その背景には、自分が後輩の女性官僚たちに言い続けてきたある言葉があった。
「後輩たちには、昇進の打診があったら絶対に断るな、受けなさいって言い続けてきたんです(笑)。
特に女性の場合は、主観的に能力や経験が足りていないと思って断ってしまう人がいるんです。
上の立場になって視点が変われば、おのずと力はついてくるものです。
客観的に能力も経験も十分だと思われているから打診されているのであって、だから断っちゃいけないと。
そう言い続けてきたんです。
次官になることを事前に知らされたときには“自分の言葉は自分に返ってくる”ということが本当によく分かりました(笑)」
官僚時代の村木さんは、おもに障害者雇用や働く女性の地位向上、少子化対策などに力を入れてこられた。
代表的なものを挙げると、障害者自立支援法の策定や育児・介護休業法の改正などがある。彼女の功績を聞くと、この半世紀近くの日本社会の変化がよく見て取れる。
● セクハラ研究会を立ち上げるも 「セクハラ」の表記はNG
例えば、1980年代の終わりから90年代初頭にかけて、日本でセクハラという言葉が普及し始める。
すでにアメリカでは大きな問題となっており、村木さんはすぐに労働省内にセクハラの研究会を立ち上げた。
予算書を提出すると、当時の財務省からこんなふうに叱られたという。
「週刊誌で使われるような言葉を予算書に書くなんて何事だ。『セクハラ』という言葉を使わずに書き直せ」と。
結局、セクハラの研究会であるにもかかわらず「セクハラ」という言葉を使わないように書き直したそうだ。
次官時代には、厚労省内への保育施設の設置にも尽力した。
「当時は無認可の保育所を厚労省の膝元につくるというのがタブーだったんです。
ただ、それがゆえに困っている人たちがたくさんいたわけです。
ちょうどその頃に、日本で女性の事務次官が生まれたということで、アメリカの労働省に招待される機会がありました。
労働省を見学してみると、すごく素敵な保育所があったんです。
労働省にちなんで、遊具は『仕事』をテーマにしたつくりになっていました。
消防車や工事現場、店員や配達員になりきれる遊具など、子どもたちが遊びながら“働くこと”を自然に学べる空間だったのです。
一般的に海外視察のレポートは職員たちが作成します。
ただしそのときばかりはあまりに感銘を受けたので、正式なレポートとは別の個人的な報告書を作成して、菅義偉官房長官(当時)にお渡ししたんです。
“あとで正式なものも提出しますから”と。
すると官房長官も共感してくださり、財務省にねじ込むことができ、それで厚労省の膝元に保育所をつくることができたんです。女性が事務次官になるのも悪くないと思いましたね」
● 官民をつなぎながら ガラスの天井を打ち破る日々
全省庁で2人目の女性の事務次官となった村木さんの存在とその仕事ぶりは、省庁幹部への女性の登用という面に大きな影響を与えたはずだ。
村木さんが次官の頃は「次官会議」という集まりが毎週あったそうだ。
参加者は官房長官と官房副長官、全長官、全次官だった。
消費者庁では2012年に初めて女性の長官が誕生したので、会議には村木さんを含めて女性が2人参加することになる。
村木さんは15年に厚労省を退官するわけだが、あとになってこんな話を聞いたそうだ。
「私が退官した直後に、消費者庁長官が欠席の次官会議があったんです。
そこに参加した方が“今日は男ばかりでなんだか変だな……”とおっしゃっていたそうなんです。
その話を聞いて、ちょっと安心しました。
そうした変化を積み重ねていくことが大切なんだなと改めて実感しました」
厚労省を退官したあとの村木さんは、企業の社外取締役、監査役などを務めたり、大学の客員教授として教育に従事したりする。
しかし近年は、再び福祉の世界に戻ってきて、全国居住支援法人協議会の立ち上げに関わったり、全国社会福祉協議会の会長などを務めたりしている。
「公務員時代には、役所という枠のなかでしか考えられなかったんですが、いまはその枠が外れて、ある意味では自由の身なんです。
民間でこれだけやるし、市民もここが手伝えるから、役所はこれをやってよ、という話もできる。
官民というより大きな枠組みでものごとを考えられるようになりました。本当にありがたいことです」
この国から「ガラスの天井」が完全になくなるまで、村木さんには元気に活躍し続けていただきたい。
鎌田 實

