トイレでは押しのけられ…黒柳徹子が「汚いおばさん」役で知った、人が見た目で態度を変えるワケ
7/14(火) ダイヤモンド・オンライン
黒柳徹子は若い頃、NHKの連続テレビ小説で生活に追われる家政婦役を演じた。
その経験は、人が見た目で扱いを変える現実と向き合うきっかけになったという。
後に『窓ぎわのトットちゃん』へと結実する彼女の感受性は、どこから生れたのか。
戦時中の体験をたどりながら、その原点に迫る。
※本稿は、歴史学研究者の山本昭宏『彼女たちの「戦後」』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。
● NHKのテレビドラマに出演し 黒柳徹子は頭角をあらわした
テレビというメディアで、黎明期の1950年代前半から現在に至るまで、途切れることなく活躍し続けているのが、黒柳徹子(1933年-)である。
黒柳徹子の活動を振り返る際に、NHKの存在は外せない。
NHKは1953年、テレビタレントを養成するために東京放送劇団の劇団員を募集した。
当時、東洋音楽専門学校(現在は東京音楽大学)の学生だった黒柳は、これに応募する。
約6000人の応募者のうち、合格者数はわずか17人(文献によってズレがある)。
そのうちのひとりが黒柳だった。
1年間の研修を経て、1954年4月に正式採用となり、テレビ・ラジオに出演し始める。
黒柳は、プロとして活動を始めた直後の1954年4月、飯沢匡が脚本を担当した子ども向けのラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(トン坊の声を担当)で頭角をあらわし、60年代前半には『若い季節』(ドラマ)や『夢であいましょう』(バラエティ)などのテレビ番組などに活躍の場を広げ、テレビタレントとして認知されるようになった。
● 永六輔による意外な指摘 「戦後体験の共感が無い」
当時の黒柳徹子については、永六輔による興味深い評価があるので紹介しておこう。
黒柳が出演していたNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』の台本を担当していた永は、1969年に次のように書いている。
「彼女の持ち味のひとつ」は「年齢不詳」だが、それが「戦後体験の共感の無さ」につながっているようにみえる。
「彼女は生活感をきらうが、学童疎開出身というような背景は、常にどこかに生かしておいてほしいと思う」と。
永が言う「戦後体験」とは、敗戦後でなければ生じなかった様ざまな体験――生活苦や復興体験、あるいは民主化や占領体験、自由な言論や社会運動の体験――などを指していると思われる。
ユニセフの親善大使としての活動や、日本ろう者劇団の結成、そして折に触れて語る戦争体験など、後年の黒柳を知る者としては、永六輔による「戦後体験の共感の無さ」という評価は、やや意外でさえある。
ただし、1960年代の黒柳は、20代後半から30代とまだ若かった。
戦時中の体験が多くの人びとに共有されている社会では、疎開体験がその後の自分をいかに形成したか、というようなことはあえて語るまでもないと考えていたのかもしれない。
そもそも、そうした体験を語る場所自体が、彼女にはほとんどなかったはずである。
それでも、永六輔の評価には頷ける部分もある。
生活感のなさは、たんに俳優としての優れた資質を意味するだけでなく、戦後民主主義のなかの平和主義の理想を盛る器としては最適だったとも言えるからだ。
たとえば吉永小百合、あるいは現代であれば綾瀬はるかがそれに相当するのかもしれないが、生活感の希薄な女性芸能人が、平和という政治的主題を伝える「メディア」として選ばれやすいということはあるだろう。
永の言葉にもう少しこだわるならば、1960年代までは、生活感と「戦後体験」が人びとのなかで当然のように結びついており、乖離していなかったということなのかもしれない。
だからこそ、「生活感をきらう」黒柳の姿が、永の記憶に残ったのだろう。
いずれにせよ、黒柳における「戦後体験」の具体的な展開は、彼女が自らを語る場所を持った70年代に本格化することになるのだった。
● 家政婦役を演じて知った 身なりで変わる扱いの差
以下ではそれを確認していくが、手始めとして、NHK連続テレビ小説の『繭子ひとり』(1971年-1972年)という作品を取り上げよう。
この作品は、エッセイなどを求められるようになった黒柳が、何度か繰り返して言及している作品であり、彼女はこの作品を通して自分自身を語っていると思われるからだ。
NHK連続テレビ小説『繭子ひとり』は、山口果林が主演を務めた人気作である。
このドラマでの黒柳の役柄は、青森県八戸市出身の「田口ケイ」という女性だった。
「田口ケイ」は夫の死後、缶詰工場などで働いて、息子と年老いた母との生活を支えてきたが、よりよい待遇を求めて上京し、家政婦になる。
生活に追われて身なりに構う余裕はないという設定であったため、黒柳は自ら工夫を凝らして、衣装やメイクで役作りに励んだ。
じつに黒柳らしいと言うべきエピソードは、ここからである。
黒柳は、自分が演じる役柄の背景には、決して恵まれた現実を生きているわけではない名もなき無数の女性たちがいるということを、身をもって感じ取っていくのだった。
撮影の前後や合間にスタジオを出る際には、その都度着替えてメイクを落とすわけにもいかないため、どうしても「田口ケイ」の姿のままで歩き回ることになる。
最初は変装の面白さを感じていた黒柳だったが、次第にあることに気がつき始める。
どこに行っても「汚いおばさん」という扱いを受けるのだ。
廊下や食堂などでこちらから挨拶をしても無視され、店員からは邪険に扱われ、トイレでは人に押しのけられたという。
こうした体験を経て、黒柳は「こんなにも人びとは、容貌、いでたちで差別するものかと、冗談でなく哀しいおもいをした」。
しかしながら、黒柳は思い直す。
自分は芸能人だから、親切にされるのに慣れており、それゆえに邪険な扱いをされたと感じてしまったけれども、人びとは別に差別しているわけではないのではないか。
それが普通なのではないか。
ウェイトレスがただ黙ってお皿を置いただけなのに、それをガチャンと置いたと受け止めて卑屈になるのは、自分がこれまであまりに恵まれすぎていたからだ、と。
● 小さな幸せに感謝する 名も無い女性たちの強さ
黒柳はここからさらに一歩踏み込んでいく。
それでもなお、「田口ケイ」のような女性は、廊下は端を歩き、食堂では目立たない場所に座るのだろう。
人から優しくしてもらおうなどとは思わずに、心を閉ざしがちになり、要領だって悪くなるだろう。
他方で、「田口ケイ」のような女性は小さな幸せを心から有難く思えるはずだ。それが彼女の美点である。
そのような女性は世の中にたくさんいる。
彼女たち個人は小さな存在かもしれないが、彼女たちの感情や感覚の集積は、決して小さいものではない――黒柳はそのように捉えたのだった。
そもそも、黒柳はなぜここまで「田口ケイ」にこだわったのだろうか。
実はその背景には戦争中の疎開体験があった。
疎開先の青森の小さな駅で、行商の女性が黒柳にたかっていたシラミをとってくれ、さらには凍えていた黒柳の手をこすって温めてくれたという。
自分のことだけで精一杯なはずなのに、それでも他人に親切にする人と戦争中に数多く出会った、と黒柳は回想している。
〈戦争は嫌だけど、ある感受性を私に与えてくれたと思う。
その感受性がなければ、田口ケイという女性の事だって、深くは理解できなかっただろう。
戦争がなければ、私は女優にならなかっただろうし、もちろんユニセフの親善大使にもならなかっただろうし、人生でのさまざまな事だって分からないままだったろう。
戦争は二度といやだけど、学んだことは、多かった。〉(黒柳徹子『トットひとり』新潮文庫、2017年)
文筆活動も始めた1970年代の黒柳は、このようにして自身の「戦争体験」「戦後体験」を語り始めたのである。
● 『窓ぎわのトットちゃん』に見る 反戦思想の原点となる記憶
黒柳は1970年代に女性司会者としての地位を固めた。
80年代には司会業と並行して、本格的な文筆活動にも乗り出している。
『窓ぎわのトットちゃん』(1981年)は、彼女のトモエ学園での小学生時代を描いた作品で、戦後最大のベストセラーとなった。
発売1年半で525万部という記録的売り上げを叩き出したこの本の読者は、9割が女性だったという。
トモエ学園とは、教育者の小林宗作によって1937年に東京の自由が丘に創設された旧制の私立幼稚園・小学校である(1960年代まで存在)。
この小さな学校の背景には、大正デモクラシーと呼ばれた思潮とも関わる先進的な教育観があった。
大正自由教育運動とも呼ばれるもので、生徒の感受性や主体性を重視する自由主義的・芸術主義的な教育観である。
トモエ学園では、時間割というものがなく、各人が勉強する順番を選ぶことができた。
校舎は車輪が外された電車。決まった席はなく、各自が好きな席を選んだ。
校歌は「トモエ、トモエ、トーモエ」だけ。
小林がパリで学んだリトミック教育(身体と精神の調和を重視するリズム教育法)を実現させた学校だった。
高名なヴァイオリン奏者を父に持つ黒柳は、開放的な雰囲気の家庭で育った。
その雰囲気はトモエ学園とも相性が良かった。
『窓ぎわのトットちゃん』を読めば、トモエ学園での教育が、そして東京大空襲による学園の焼失を通して体感された戦争が、黒柳の精神形成においていかに重大なものだったかを理解できるだろう。
● 1980年代の読者たちが 共感した戦後の記憶
80年代初頭は、一方では世界的反核運動が盛り上がりをみせ、他方では少年の非行や管理教育などが社会問題化していた時期でもあった。
この作品のなかで回想されたトモエ学園の自由な校風と、それが戦争によって途絶えるという語り口は、人びとの反戦意識と水面下でつながっていた。
それは、たとえば、次の場面にわかりやすく表れている。
軍需工場で軍歌を演奏することを拒んだ父親にトットちゃんが共感する場面である。
演奏すればお礼として米や砂糖がもらえるかもしれないが、ヴァイオリンで軍歌は弾けないと父親は言う(なお黒柳の父は1943年の夏、37歳のときに補充兵として歩兵となり、敗戦後はシベリア抑留を経て1949年の年末に帰国した)。
『窓ぎわのトットちゃん』の「成功」を別の角度から理解することもできる。
80年代という「豊かな」時代の日本社会は、上流家庭だった黒柳家の「豊かさ」を、特異なものとしてではなく、自然なものとして受け止めることができた。
結果的に、この作品は80年代の読者にも共感が容易で、時宜を得たものになったのではないだろうか。
山本昭宏

